畠山久俊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 02:48 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 吹田玄蕃久俊 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 畠山尚順 |
氏族 | 畠山氏 |
父母 | 父:畠山政長 |
兄弟 | 尚慶、久俊 |
妻 | 黄梅寺関係者 |
子 | 畠山刑部左衛門、弥四郎久長 |
畠山 久俊(はたけやま ひさとし)は、戦国時代の武将。実在性は不明。
概要
『畠山記集成』によると、明応6年(1497年)9月には畠山尚順・越智光元と敵対する筒井順盛・十市清矩を討伐するために大将として出陣している。同8年(1499年)には「佐味ノ中山」に砦を築いて周辺の国人を従えた[1]。
一方有田市の定福寺の伝承によると、明応2年(1493年)の正覚寺の戦いで兄・畠山尚順が敗北して紀伊国に退いたため、久俊も摂津国吹田から紀伊国宮原荘に退却した。定福寺の吹田観音はこの際に持ち込まれたものであるという[2]。
『紀伊続風土記』によると、有田郡広荘広村の吹田荘蔵の先祖が久俊であり、子の弥四郎久長は永禄5年(1562年)3月5日の久米田合戦で戦死したという[3]。
脚注
注釈
出典
関連項目
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