田仁会とは? わかりやすく解説

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田仁会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 10:00 UTC 版)

田 仁会(でん じんかい、602年 - 679年)は、唐代官僚軍人本貫雍州長安県[1][2]

経歴

武徳初年、制挙に応じ、左衛兵曹に任じられた。左武候衛(後の左金吾衛)中郎将に累進した。貞観19年(645年)、太宗高句麗遠征に出立した後、薛延陀の数万騎が夏州に進攻してくると、仁会は執失思力とともに太宗の命を受けて兵を率いて薛延陀を撃破し、数百里にわたって追撃した[1][2]

永徽2年(651年)、仁会は平州刺史に任じられ、学問を勧奨して農業を振興し、善政で知られた。郢州刺史に転じると、旱魃が発生したことから、仁会は祈祷をおこなって雨を降らせ、その年は豊作になったという。五度異動して勝州都督となった。勝州の境では山賊が険阻な地に拠って、旅客の荷物を奪っていたので、仁会は騎兵を発してかれらを捕殺した。入朝して太府寺少卿となった[1][2]

麟徳2年(665年)、仁会は右金吾衛将軍に任じられた。長安城内を昼夜に巡邏して、不法をおこなう者を摘発して処罰したため、貴賤を問わずかれを恐れはばかった。ときに巫女の蔡氏が鬼道をもって民衆を惑わし、死者を再生することができると自称していたことから、仁会は彼女を辺境に移すよう上奏した[3][4]

総章2年(669年)、仁会は太常寺卿に転じた。咸亨2年(671年)、右衛将軍となった。老齢のため致仕した。儀鳳4年(679年)、死去した。享年は78。は威といった。神龍年間、戸部尚書の位を追贈された[3][5]

家族

脚注

  1. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 4793.
  2. ^ a b c d 新唐書 1975, p. 5623.
  3. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4794.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5623–5624.
  5. ^ a b 新唐書 1975, p. 5624.
  6. ^ 旧唐書 1975, pp. 4794–4795.

伝記資料

参考文献




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