王良 (明)
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王良(おう りょう、14世紀 - 1402年)は明初の官僚。字は天性(てんせい)。河南行省汴梁路祥符県(現在の河南省開封市)の人。壬午殉難に際して自害した。
生涯
洪武年間に僉都御史となったが、友人に連座して刑部郎中に降格させられた。建文年間に入ると刑部左侍郎に昇進したが、建文帝が行っていた削藩政策[注釈 1]に反対したために、浙江の按察使に左遷された[1]。このとき、浙江岳王廟(南宋初期の忠臣岳飛[注釈 2]の墓がある)に詣で、「武穆(岳飛の諡)に恥じぬようにせねばならない」と誓ったという[2]。
建文4年(1402年)、燕王朱棣が起こした反乱靖難の変は、朱棣側の勝利に終わった。南京を奪った朱棣は、かつて王良が削藩を緩和する建言をしたと知り、使者を送って召し抱えようとした。しかし王良は応じるどころか、かえってその使者を捕縛し、斬り捨てようとした。周囲に止められると官印類を持って自宅に戻り、妻に自害の決意を話した。これを聞くと妻も、庭園の池に身を投げた。王良は幼い息子を他人の家に託すと、家に官印もろとも火を放って果てた。朱棣はこれを聞き、「死を選ぶのは自由だが、朝廷の官印を毀損したことは咎めを免れない」として、その家を辺境へと移させた[1]。
正徳年間、按察使の梁材と提学副使の劉瑞によって、王良を祀る祠が建てられた[2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『明史』巻143
- 『国朝献徴録』巻84
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