王良_(明)とは? わかりやすく解説

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王良 (明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/18 09:47 UTC 版)

王良(おう りょう、14世紀 - 1402年)は初の官僚。天性(てんせい)。河南行省汴梁路祥符県(現在の河南省開封市)の人。壬午殉難に際して自害した。

生涯

洪武年間に僉都御史となったが、友人に連座して刑部郎中に降格させられた。建文年間に入ると刑部左侍郎に昇進したが、建文帝が行っていた削藩政策[注釈 1]に反対したために、浙江按察使に左遷された[1]。このとき、浙江岳王廟南宋初期の忠臣岳飛[注釈 2]の墓がある)に詣で、「武穆(岳飛の)に恥じぬようにせねばならない」と誓ったという[2]

建文4年(1402年)、燕王朱棣が起こした反乱靖難の変は、朱棣側の勝利に終わった。南京を奪った朱棣は、かつて王良が削藩を緩和する建言をしたと知り、使者を送って召し抱えようとした。しかし王良は応じるどころか、かえってその使者を捕縛し、斬り捨てようとした。周囲に止められると官印類を持って自宅に戻り、妻に自害の決意を話した。これを聞くと妻も、庭園の池に身を投げた。王良は幼い息子を他人の家に託すと、家に官印もろとも火を放って果てた。朱棣はこれを聞き、「死を選ぶのは自由だが、朝廷の官印を毀損したことは咎めを免れない」として、その家を辺境へと移させた[1]

正徳年間、按察使の梁材中国語版と提学副使の劉瑞中国語版によって、王良を祀る祠が建てられた[2]

脚注

注釈

  1. ^ 藩王の勢力を削ること。靖難の変の原因となった。
  2. ^ 武将であり、北方民族である金王朝の侵攻に抵抗して奮戦したが、非業の死を遂げた。忠義と武勇の人として広く知られ、早くから神格化されている。

出典

  1. ^ a b 『明史』巻143王良伝。
  2. ^ a b 『国朝献徴録』巻84浙江提刑按察使王良伝。

参考文献

  • 明史』巻143
  • 『国朝献徴録』巻84



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