傅懿妃とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 傅懿妃の意味・解説 

傅懿妃

(温定懿妃 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 04:13 UTC 版)

傅懿妃(ふいき、万暦16年(1588年) - 崇禎17年5月26日1644年6月30日))は、泰昌帝の側室。

生涯

万暦年間、皇太子朱常洛(後の泰昌帝)の邸に入り、選侍(皇子の側室)となった。皇太子から寵愛を受けた。

泰昌帝が即位すると、詔書により妃に封じられたが、妃に冊封する儀式の際に泰昌帝が崩じた。天啓帝の即位後、傅氏たちは別宮へ追放されたが、後に呼び戻された。天啓4年(1624年)、光廟懿妃(泰昌帝の廟号の光宗による)に封じられた。崇禎13年(1640年)、孝純太后(元は傅懿妃と同じく泰昌帝の側室だった)の肖像を描かせるため、崇禎帝(孝純太后の実子)により温定の徽号が贈られた。

崇禎17年(1644年)3月19日、李自成軍が皇宮に進入すると、宦官と共に白洋淀(現在の河北省保定市安新県雄県の湖)へ逃れて避難した。同年5月26日(1644年6月30日)、農村で病没した。

子女

  • 朱徽妍(寧徳公主)
  • 朱徽婧(遂平公主
  • 朱由栩 - 夭折。崇禎末年に湘懐王と追諡された。

参考文献

  • 『明熹宗実録』
  • 『崇禎長編』
  • 『新安県志』



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「傅懿妃」の関連用語

1
36% |||||

2
32% |||||

3
18% |||||

4
14% |||||

傅懿妃のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



傅懿妃のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの傅懿妃 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS