殷鈞とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 殷鈞の意味・解説 

殷鈞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 07:50 UTC 版)

殷 鈞(いん きん、484年 - 532年)は、南朝梁政治家学者は季和。本貫陳郡長平県

経歴

殷叡と王氏のあいだの子として生まれた。永明11年(493年)、母方の祖父の王奐(王份の兄)が処刑され、父の殷叡も殺害された。殷鈞は成長すると、恬淡として交遊も少なく、学問を好んだ。隷書を得意として、范雲任昉に賞賛された。蕭衍は殷叡と旧交があったため、娘の永興公主を殷鈞にとつがせた。

天監初年、駙馬都尉に任じられ、秘書郎をはじめとして、太子舎人・司徒主簿・秘書丞をつとめた。宮中の秘閣の四部書を校定し、目録を改めて作った。また西省の法書の古跡を調査して、別に品目を作った。驃騎従事中郎・中書郎・太子家令に転じ、東宮の書記をつかさどった。ほどなく給事黄門侍郎・太子中庶子・尚書吏部郎・司徒左長史・侍中となった。東宮に学士が置かれると、殷鈞は学士に任じられた。仕事上の失敗で免官された。再び太子中庶子となり、国子博士・左驍騎将軍を兼ねた。明威将軍・臨川郡内史として出向した。

殷鈞は持病が多く、床に臥せって行政をみたが、臨川郡では善政で知られた。母の王氏が死去すると、辞職して喪に服した。服喪が終わると、五兵尚書に任じられたが、病の身に堪えないとして受けず、散騎常侍・歩兵校尉となり、東宮で勤務した。まもなく太子中庶子を兼ねた。昭明太子が死去すると、東宮を去り、散騎常侍のまま右游撃・国子祭酒となった。

中大通4年(532年)、死去した。享年は49。は貞子といった。

子女

  • 殷構
  • 殷渥

伝記資料

  • 梁書』巻27 列伝第21
  • 南史』巻60 列伝第50



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「殷鈞」の関連用語

1
10% |||||


3
4% |||||

4
4% |||||

5
4% |||||

殷鈞のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



殷鈞のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの殷鈞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS