桓公_(春秋宋)とは? わかりやすく解説

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桓公 (春秋宋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 14:55 UTC 版)

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桓公(かんこう、? - 紀元前651年)は、春秋時代の君主(在位前682年 - 前651年)。姓は子、名は禦説。荘公の子。湣公の弟にあたる。

生涯

紀元前682年、南宮万が湣公を蒙沢で殺害し、大夫の仇牧を城門で殴殺した。さらに太宰の華父督を殺害し、公子游を宋国の君主に立てた。禦説は亳に逃れ、ほかの公子たちは蕭に逃れた。南宮万の弟の南宮牛と猛獲は軍を率いて亳を包囲した。蕭叔大心と宋の公族たちは曹の軍を借りて南宮万を攻撃し、南宮牛を軍中で殺し、游を国都で殺害した。禦説が擁立された。猛獲は衛に逃れ、南宮万は陳に逃れたが、いずれも送還されて殺害された。

紀元前681年春、桓公はと北杏で会合した。紀元前680年、斉・陳・が宋を攻撃した。周の単伯が諸侯の連合軍に合流すると、宋は屈服して和議を結んだ。桓公は単伯や斉・と鄄で会合した。紀元前679年、斉・陳・衛・鄭と鄄で会合した。斉・邾とともに郳を討つと、その隙に鄭が宋に侵攻してきた。紀元前678年、斉・衛とともに鄭を攻撃した。斉・陳・衛・鄭・・滑・と幽で盟約を結んだ。

紀元前675年の公子結と連携し、斉・陳とともに魯の西鄙を攻撃した。紀元前668年、斉・魯とともに徐を攻撃した。紀元前667年、斉・魯・陳・鄭と幽で盟約を結んだ。紀元前666年が鄭を攻撃したため、宋は斉・魯とともに鄭を救援した。紀元前662年、斉の桓公と梁丘で会談した。

紀元前659年、斉・魯・曹とともに邢を救援した。斉・魯・鄭・曹・邾と檉で会合した。紀元前658年、斉・江・黄と貫で盟約を結んだ。紀元前657年、斉・江・黄と陽穀で会合した。紀元前656年、斉・魯・陳・衛・鄭・許・曹とともに蔡を攻め落とし、楚に侵攻した。楚が屈服したので、召陵で盟約を結んだ。斉・魯・衛・鄭・許・曹とともに陳を攻撃した。紀元前655年、斉・魯・陳・衛・許・曹と首止で盟約を結んだ。紀元前654年、斉・魯・陳・衛・曹とともに鄭を攻撃し、楚軍に包囲された許を救援した。紀元前653年、斉・魯・陳・鄭と甯母で盟約を結んだ。紀元前652年、斉・魯・衛・鄭・許・曹・陳と洮で盟約を結んだ。

紀元前651年の春に死去した。

子女

  • 目夷(子魚) - 公孫友の父、魚氏の祖[1]
  • 茲甫 - 宋の襄公
  • 公子鱗
  • 公子盪
  • 公子向
  • 公子敖

脚注

  1. ^ 『春秋経伝集解』文公七年より。

参考文献

  • 史記』宋微子世家第八
  • 春秋左氏伝』荘公12 - 16年、19年、26 - 28年、32年、僖公元 - 9年



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