板沢峰生とは? わかりやすく解説

板沢峰生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 07:20 UTC 版)

板沢 峰生
Mineo itazawa
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県東葛飾郡流山町(現在の流山市
生年月日 (1961-07-04) 1961年7月4日
没年月日 (1980-12-03) 1980年12月3日(19歳没)
身長
体重
178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1979年 ドラフト外[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

板沢 峰生(いたざわ みねお、1961年7月4日 - 1980年12月3日)は、千葉県東葛飾郡流山町(現在の流山市)出身のプロ野球選手内野手)。

来歴・人物

我孫子高では、2年次の1978年に当時1年生であった和田豊と三遊間を組んで夏の甲子園に出場した。

1979年オフ、チームメイトの仲野和男外野手)と共にドラフト外西武ライオンズに入団した。

1年目の1980年二軍イースタン・リーグ公式戦39試合に出場[1]、打率.238、2本塁打、9打点の成績を残し、守備でも堅実なフィールディングを見せ注目されていた。しかし千葉県の自宅に帰省していた同年オフの12月2日、突然気分が悪くなって我孫子市の病院に入院し、急性心不全のため翌3日に死去した(19歳没)[2]。将来を嘱望されていた若手の現役選手の突然の死に西武は1981年以降板沢の入団10年目に当たる1989年に至るまでの9年間、板沢の背番号59を欠番とした。

詳細情報

年度別打撃成績

  • 一軍公式戦出場なし

背番号

  • 59 (1980年)

関連項目

  1. ^ a b 読売新聞』1980年12月4日東京朝刊第14版17頁「(訃報)板沢峰生氏」(読売新聞東京本社
  2. ^ 朝日新聞』1980年12月4日東京朝刊第13版スポーツ面17頁「プロ野球短信 西武の板沢内野手死去」(朝日新聞東京本社]]) - 縮刷版135頁。




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