李義琰
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李 義琰(り ぎえん、生年不詳 - 688年)は、唐代の官僚・政治家。本貫は魏州昌楽県[1][2]。
経歴
癭陶県令の李玄徳の子として生まれた。若くして進士に及第し、太原県尉に任じられた。李勣が并州都督となると、并州の属僚たちは李勣の威風に恐縮したが、義琰はひとり面と向かって理非曲直を説いたので、李勣は義琰を礼遇した。義琰は麟徳2年(665年)に白水県令となり、有能で知られた。刑部員外郎に任じられた。上元2年(675年)、中書侍郎に累進した。上元3年(676年)、同中書門下三品(宰相)となった。儀鳳2年(677年)、太子右庶子を兼ねた。武則天が国政に参与するようになると、高宗は武則天に摂知国事をつとめるよう詔を下そうとしたが、義琰と中書令の郝処俊が強く反対したため、そのことは中止された。義琰は身長が8尺あり、博学で物事を多く知っていた。高宗の諮問があるたびに、義琰の言は懇切で率直だった。調露2年(680年)、章懐太子李賢の廃位にあたって、高宗は東宮官の罪を全て赦したため、太子左庶子の薛元超らはみな喜んだが、義琰はひとり太子の失脚を自責して泣いた[3][2]。
義琰の邸には寝殿がなかったため、弟の李義璡が邸を増築するための材木を送ってきた。義琰は広壮な邸宅を建てるつもりはないと、材木を放置して腐らせてしまった。のちに義琰は父母を改葬したが、母の兄の墓を移してしまった。高宗はこのことを知ると、外家を侮り軽んずるような人物は、知政事(宰相)にふさわしくないといって怒った。義琰はこれを聞いて不安になり、足の病を理由に引退を願い出た。弘道元年(683年)、銀青光禄大夫の位を加えられ、致仕を許された。東都洛陽の田里に帰ろうとすると、公卿以下が通化門外で餞別し、当時の人は漢の疏広・疏受にたとえた。垂拱元年(685年)、義琰は懐州刺史として起用されることになった。義琰は武則天の懇意を失ったことを自覚して、禍が及ぶのを恐れ、固辞して受けなかった。垂拱4年(688年)、家で死去した[4][5]。
子に李超があり、殿中侍御史となった[6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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