李僅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/01 07:00 UTC 版)
李 僅(り きん、生年不詳 - 783年)は、唐の皇族。彭王。粛宗の五男[1]。
経歴
粛宗と陳婕妤のあいだの子として生まれた[2][3]。天宝年間、新城郡王に封じられ、鴻臚寺卿同正員に任じられた。至徳2載(757年)12月、彭王に進封された。乾元2年(759年)冬、史思明が再び河洛を攻め落とすと、関東の官軍は動揺し、群臣は親王に名目上の兵権を統べさせるよう請願した。乾元3年(760年)4月、李僅は河西節度大使を領した[4][5]。建中4年(783年)、涇原で兵変が起きると、李僅は殺害された。
子の李鎮は太僕寺卿同正員に任じられ、常山郡王に封じられた[6][7]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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