摂津晴門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:22 UTC 版)
摂津 晴門(せっつ はるかど)は、戦国時代の武士。足利将軍家の家臣。政所執事。
- ^ 風雲戦国史-戦国武将の家紋 「武家家伝_摂津氏」
- ^ a b c d e f g h 木下聡「摂津氏」『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-790-5
- ^ 摂津元造は明応3年12月27日に14歳で元服任官を受けたとする記録(『御元服聞書』)が残されている(木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年、pp199・211、ISBN 978-4-642-02904-9 )。そこから逆算すると、元造は文明13年(1481年)生まれとなるため、永禄5年には82歳になっていたことになる。
- ^ 過去には二階堂氏が政所執事を務めていた時期もあるが、当時の当主である二階堂晴泰は義輝からは晴門ほどの信任を得ていなかった(木下聡、2018年、P208)。
- ^ a b 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2)
- ^ a b 木下昌規「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2(原論文:2010年・2012年)
- ^ 木下聡は逼塞を命じられたのを7月としているが、久野雅司によれば、義昭がこの件で晴門と神宮伝奏の柳原資定の処分を下したのは2月10日(もしくはそれ以前)である。なお、この伊勢神宮禰宜職相論そのものは7月に行われた朝廷での裁決の結果、柳原資定は反論が認められて無罪となったが、晴門が許された時期については不明である(久野雅司「足利義昭政権における相論裁許と義昭の〈失政〉」『織田信長政権の権力構造』(戒光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-326-8 P88-97.)。
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