徳蔵寺 (茨城県城里町)とは? わかりやすく解説

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徳蔵寺 (茨城県城里町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 04:53 UTC 版)

徳蔵寺
所在地 茨城県東茨城郡城里町徳蔵874
位置 北緯36度27分26.4秒 東経140度14分57.8秒 / 北緯36.457333度 東経140.249389度 / 36.457333; 140.249389座標: 北緯36度27分26.4秒 東経140度14分57.8秒 / 北緯36.457333度 東経140.249389度 / 36.457333; 140.249389
山号 引布山
院号 金剛光院
宗派 真言宗智山派
創建年 弘仁年間(810年 - 824年
開山 弘法大師空海
中興年 大永2年(1522年
中興 空法
別称 徳蔵大師
文化財 木造弘法大師像、両界曼荼羅版木、礼盤(以上、茨城県指定文化財)、徳蔵寺の駕籠、大師堂(以上、城里町指定文化財)
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徳蔵寺(とくぞうじ)は、茨城県東茨城郡城里町にある真言宗智山派寺院

歴史

弘仁年間(810年 - 824年)、弘法大師空海によって開山された。その後、順調に寺運興隆していったが、笠間正福寺とは犬猿の仲で、度々武力抗争が繰り広げられていた。正福寺は勢力が劣勢だったことから、宇都宮頼綱に援軍を依頼し、1205年元久2年)に正福寺・宇都宮連合軍は当寺を攻め、廃寺に追いやった。ところが、その後正福寺と宇都宮氏は仲違いし、宇都宮氏は正福寺を攻め、結局両寺とも廃寺になってしまった[1]

1522年大永2年)、空法によって再興された。また正福寺も再興されて現在に至っている[1]

文化財

  • 木造弘法大師像(茨城県指定文化財 昭和37年2月26日指定)[2]
  • 両界曼荼羅版木(茨城県指定文化財 昭和37年2月26日指定)[3]
  • 礼盤(茨城県指定文化財 昭和37年2月26日指定)[4]
  • 徳蔵寺の駕籠(城里町指定文化財 昭和58年3月31日指定)[5]
  • 大師堂(城里町指定文化財 平成元年3月15日指定)[6]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年、162-163p
  2. ^ 木造弘法大師像茨城県
  3. ^ 両界曼荼羅版木茨城県
  4. ^ 礼盤茨城県
  5. ^ 徳蔵寺の駕籠城里町
  6. ^ 大師堂城里町

参考文献

  • 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年



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