張耒とは? わかりやすく解説

張耒

(張文潜 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 07:27 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

張 耒(ちょう らい、1054年 - 1114年)は、中国北宋文人は文潜。本貫亳州譙県

生涯

楚州淮陰県に生まれる。遊学中に蘇轍に学び、その兄の蘇軾に認められてその門下となり、黄庭堅秦観晁補之とともに「蘇門四学士」と称された。神宗熙寧6年(1073年)に進士に合格し、臨淮主簿・寿安県尉・咸平県丞を歴任。中央に推挙され太学博士となり、元祐元年(1086年)、哲宗時期に秘書省正字・著作佐郎に任命される。やがて著作郎と史館検討を兼任し、その8年後に起居舎人に抜擢された。紹聖元年(1094年)には龍図閣直学士・潤州知州だったが、新法・旧法の争い(党争)に巻き込まれ、旧法党として宣州知州・監黄州酒税に左遷された。徽宗が即位すると黄州通判となり、中央に復帰して太常少卿となり、潁州知州・汝州知州を歴任。崇寧元年(1102年)、またしても党争のために罷免され、陳州に隠退して多くの門人を指導し、宛丘先生と呼ばれた。

思想

排老論者であり、かつて「老子議」を発表して老子の説を批判したことがある。筆力は雄健であり、特に騒体の作に優れ、蘇軾・蘇轍にその才を称された。蘇軾・蘇轍兄弟や黄庭堅・晁補之が相次いで没した後には大家の名をほしいままにした。常に文を作るには理を以て主とすべきと唱え、明確な文章を目指した。晩年は白居易の平淡な楽府体に学んだ。

著作

  • 『柯山集』
  • 『宛丘先生文集』
  • 『張右史文集』
  • 『張文潜文集』

参考文献

  • 宋史』巻444
  • 『東都事略』巻116




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張耒」の関連用語

張耒のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張耒のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの張耒 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS