張又新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/19 09:54 UTC 版)
張 又新(ちょう ゆうしん、生没年不詳)は、唐代の官僚。字は孔昭[1]。本貫は深州陸沢県[2][3]。
経歴
工部侍郎の張薦の子として生まれた。幼くして文章に巧みで、附会を得意とした。元和年間、進士に及第し、左補闕・右補闕を歴任した。長慶年間、宰相の李逢吉に仕えた。李逢吉は翰林学士の李紳が穆宗に信任されていることから、これを憎んでいた。又新は李続之や劉栖楚らとともに李逢吉の子飼いである「八関十六子」のひとりとして、李紳を陥れるべく画策した。長慶4年(824年)、穆宗が死去し、敬宗が即位すると、又新は李紳と対立したことから、端州司馬に左遷された。まもなく祠部員外郎となった[4][5]。
宝暦3年(827年)、李逢吉が山南東道節度使として出向すると、又新はその下で節度副使となった。大和元年(同年)、李逢吉が宰相を退任し、裴度の弾劾を受けると、又新は連座して汀州刺史に左遷された。李逢吉が致仕すると、又新は李訓に仕えた。刑部郎中となり、申州刺史に転じた。大和9年(835年)、李訓が甘露の変で処断されると、又新はまた左遷された。のちに左司郎中として死去した[6][7]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
- 張又新のページへのリンク