劉栖楚とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 劉栖楚の意味・解説 

劉栖楚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/29 08:52 UTC 版)

劉 栖楚(りゅう せいそ、776年 - 827年)は、唐代官僚は善保。

経歴

劉博の子として生まれた。河南県尉の劉栖梧の弟にあたる。身分の低い出身から、恒州の官吏となり、王承宗に見出された。のちに李逢吉の推薦を受け、鄧州司倉参軍から右拾遺に抜擢された。李逢吉の手先となり、裴度を中傷し、李紳を殺そうとした[1][2]

長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、遊猟に出ることが多く、朝から晩に及んだ。栖楚は入朝すると、禁裏の地面に額を叩きつけて血を流しながら、敬宗を諫めた。李逢吉がかれの叩頭を止め、敬宗が顔色を変えて栖楚を退出させようとすると、栖楚は「臣が奏上できないなら、臣は首を砕いて死にましょう」と言い放った。敬宗が詔を出すと、ようやく栖楚は退出した[3][4]

ほどなく栖楚は起居郎に転じ、諫議大夫に進んだ[5][6]宝暦元年(825年)、刑部侍郎に任じられた[7]京兆尹に転じ、豪族を抑制して、当時の人に前漢趙広漢にたとえられた。のちに権勢をたのんで、宰相の韋処厚を凌駕しようとしたため[5][6]、宝暦3年(827年)1月に桂管観察使として出された[8]大和元年(同年)8月25日、在官のまま死去した。享年は52。左散騎常侍の位を追贈された[5][6]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 4106.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 5245.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4106–4107.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5245–5246.
  5. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4107.
  6. ^ a b c 新唐書 1975, p. 5246.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 514.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 525.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  劉栖楚のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉栖楚」の関連用語

1
4% |||||

2
4% |||||

劉栖楚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉栖楚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉栖楚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS