岡留熊野座神社とは? わかりやすく解説

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岡留熊野座神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/13 08:19 UTC 版)

岡留熊野座神社
所在地 〒868-0415 熊本県球磨郡あさぎり町免田西1579
位置 北緯32度13分49.7秒 東経130度52分38.8秒 / 北緯32.230472度 東経130.877444度 / 32.230472; 130.877444 (岡留熊野座神社)座標: 北緯32度13分49.7秒 東経130度52分38.8秒 / 北緯32.230472度 東経130.877444度 / 32.230472; 130.877444 (岡留熊野座神社)
主祭神 伊邪那岐神、伊邪那美神、速玉男之大神
創建 弘安3年(1280年)
本殿の様式 春日造
別名 幸福神社
例祭 11月8日
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岡留熊野座神社(おかどめくまのざじんじゃ)は、熊本県球磨郡あさぎり町にある神社である。

祭神

伊邪那岐神(いざなきのみこと)、伊邪那美神(いざなみのみこと)、速玉男之大神(はやたまおのおおかみ)を祀る。

由緒

大陸の超大国、元の皇帝フビライが日本に入貢を求めたが、鎌倉幕府は拒否した。そこで、元は文永11年(1274年)に壱岐・対馬に侵攻し、博多に迫ったが敗退した。元は、弘安4年(1281年)、再び日本に来襲したが、相良氏第3代当主相良頼俊が、弘安の役の蒙古襲来の際、相良一族を出征させるとともに、善男善女を集めて勝利を祈願したところ神風が吹き勝利した。この蒙古襲来の二度とも大風が起こって、元の艦船が沈没するものが多く、元が敗退する大きな要因になったといわれる。この弘安の役の前年、弘安3年(1280年)日本に戦乱が起きるのではという緊張がはしっていた頃、国家の安寧と、敵国降伏を祈るために建立された。

現在の社殿は、昭和6年(1931年)に造営されたもので、国家の保安を祈るために岡留神社を建立したと伝えられている。

境内社

境内中段の東側には、切妻屋根の二所権現があり、これが岡留神社の旧本殿である。

この神殿には、神像として六体が祀られており、二体には、享保10年(1725年)の銘、二体には、承応2年(1653年)の銘があるが、他の二体は無銘である。その他にも、毘沙門天像二対と牛頭天王像がある。

そこにある木板には、窪権現(熊野大神)、池王神(龍水神)、天神(菅原道真公)、二宮神(阿蘇大神)、八王子神(霧島系神)、北嶽日吉神(子供の神)の神名が見られる。

また、境内中段の西側には、農家の雨乞いの神として祀られている雨宮(雨の宮)があり、大黒天1体、尊名がわからない神像座像4体がある。

別名

「難を留めて幸せを祈る社(やしろ)」として、幸福神社の別名を持つ。

おかどめ幸福駅の側にも鳥居があり、その扁額は「幸福神社」になっている。

交通

  • くま川鉄道 おかどめ幸福駅から徒歩5分
  • 九州自動車道人吉ICから国道219号線、または県道33号線を経由し車で30分



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