孫林父とは? わかりやすく解説

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孫林父

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/23 10:15 UTC 版)

孫 林父(そん りんぽ、生没年不詳)は、中国春秋時代政治家は姫。

生涯

紀元前584年、孫林父は衛の定公に嫌われ、に亡命した。[1]

紀元前576年、晋の厲公郤犨の介入により、定公はやむなく孫林父を帰国させた。[2]

紀元前571年、虎牢の築城に参加。[3]

紀元前566年に使者として赴いたが、叔孫豹中国語版は「孫氏は必ず滅びる」と評価した。[4]

紀元前563年公子貞中国語版と鄭の子耳中国語版が宋を攻め、衛の献公は援軍を送った。これに対し、鄭の子展と子駟は兵を出して衛を攻撃し、孫林父は定姜(衛の定公の夫人)の卜をもとに息子の孫蒯とともにこれに対抗した。[5]

紀元前559年、献公は孫林父と寧殖を軽んじ、宴に招いたにもかかわらず姿を現さなかった。さらに、孫蒯の面前で音楽家の師曹に『巧言』の終章を歌わせた。孫蒯は父にこのことを告げ、孫林父は寧殖と共に献公を追放し、献公の弟の殤公を擁立。献公は斉へ逃亡した。[6]

紀元前548年、献公は寧喜に帰国の要望を伝え、寧喜は許諾した。[7]

紀元前547年、寧喜は殤公を殺して献公を復位させた。孫林父は戚を経て晋国に逃れて亡命した。[8]

脚注

  1. ^ 成公七年:「衛定公惡孫林父。冬。孫林父出奔晉。」
  2. ^ 成公十四年:「夏。衛侯既歸。晉侯使郤犨送孫林父而見之。衛侯欲辭。定姜曰。不可。是先君宗卿之嗣也。大國又以為請。不許。將亡。雖惡之。不猶愈於亡乎。君其忍之。安民而宥宗卿。不亦可乎。衛侯見而復之。」
  3. ^ 襄公二年:「冬。仲孫蔑會晉荀罃・齊崔杼・宋華元・衛孫林父・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人于戚。遂城虎牢。」
  4. ^ 襄公七年:「衛孫文子來聘。且拜武子之言。而尋孫桓子之盟。公登亦登。叔孫穆子相。趨進曰。諸侯之會。寡君未嘗後衛君。今吾子不後寡君。寡君未知所過。吾子其少安。孫子無辭。亦無悛容。穆叔曰。孫子必亡。為臣而君。過而不悛。亡之本也。詩曰。退食自公。委蛇委蛇。謂從者也。衡而委蛇必折。」
  5. ^ 襄公十年:「孫文子卜追之。獻兆於定姜。姜氏問繇曰。兆如山陵。有夫出征。而喪其雄。姜氏曰。征者喪雄。禦寇之利也。大夫圖之。衛人追之。孫蒯獲鄭皇耳于犬丘。」
  6. ^ 襄公十四年:「衛獻公戒孫文子。寧惠子食。皆服而朝。日旰不召。而射鴻於囿。二子從之。不釋皮冠而與之言。二子怒。孫文子知戚。孫蒯入使。公飲之酒。使大師歌巧言之卒章。大師辭。師曹請為之。初。公有嬖妾。使師曹誨之琴。師曹鞭之。公怒。鞭師曹三百。故師曹欲歌之。以怒孫子。以報公。公使歌之。遂誦之。蒯懼。告文子。文子曰。君忌我矣。弗先。必死。并帑於戚。而入見蘧伯玉曰。君之暴虐。子所知也。大懼社稷之傾覆。將若之何。對曰。君制其國。臣敢奸之。雖奸之。庸知愈乎。遂行。從近關出。公使子蟜・子伯・子皮。與孫子盟于丘宮。孫子皆殺之。四月。己未。子展奔齊。公如鄄。使子行於孫子。孫子又殺之。公出奔齊。」
  7. ^ 襄公二十五年:「衛獻公自夷儀使與寧喜言。寧喜許之。」
  8. ^ 襄公二十六年:「二十有六年春。王二月。辛卯。衛寧喜弑其君剽。衛孫林父入于戚以叛。甲午。衛侯衎復歸于衛。」

関連項目




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