孫林父とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 孫林父の意味・解説 

孫林父

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 18:19 UTC 版)

孫 林父(そん りんぽ、生没年不詳)は、中国春秋時代政治家は姬。

生涯

紀元前584年、孫林父は衛の定公に嫌われ、に亡命した。[1]

紀元前576年、晋の厲公郤犨の介入により、定公はやむなく孫林父を帰国させた。 [2]

紀元前571年、虎牢の築城に参加。[3]

紀元前566年に使者として赴いたが、叔孫豹中国語版は「孫氏は必ず滅びる」と評価した。[4]

紀元前563年の公子公子貞中国語版と鄭の子耳が宋を攻め、衛の献公は援軍を送った。これに対し、鄭の子展と子駟は兵を出して衛を攻撃し、孫林父は定姜(衛の定公の夫人)の卜をもとに息子の孫蒯とともにこれに対抗した。[5]

紀元前559年、献公は孫林父と寧殖を軽んじ、宴に招いたにもかかわらず姿を現さなかった。さらに、孫蒯の面前で音楽家の師曹に『巧言』の終章を歌わせた。孫蒯は父にこのことを告げ、孫林父は寧殖と共に献公を追放し、献公の弟・殇公を擁立。献公は斉へ逃亡した。[6]

紀元前548年、献公は寧喜に帰国の要望を伝え,寧喜は許諾した. [7]

紀元前547年、寧喜は殇公を殺して献公を復位させた。孫林父は戚を経て晋国に逃れて亡命した。[8]

脚注

  1. ^ 成公七年:「衛定公惡孫林父。冬。孫林父出奔晉」
  2. ^ 成公十四年:「夏。衛侯既歸。晉侯使郤犨送孫林父而見之。衛侯欲辭。定姜曰。不可。是先君宗卿之嗣也。大國又以為請。不許。將亡。雖惡之。不猶愈於亡乎。君其忍之。安民而宥宗卿。不亦可乎。衛侯見而復之。」
  3. ^ 襄公二年:「冬.仲孫蔑會晉荀罃.齊崔杼.宋華元.衛孫林父.曹人.邾人.滕人.薛人.小邾人.于戚.遂城虎牢」
  4. ^ 襄公七年:「衛孫文子來聘.且拜武子之言.而尋孫桓子之盟.公登亦登.叔孫穆子相.趨進曰.諸侯之會.寡君未嘗後衛君.今吾子不後寡君.寡君未知所過.吾子其少安.孫子無辭.亦無悛容.穆叔曰.孫子必亡.為臣而君.過而不悛.亡之本也.詩曰.退食自公.委蛇委蛇.謂從者也.衡而委蛇必折.」
  5. ^ 襄公十年:「孫文子卜追之.獻兆於定姜.姜氏問繇曰.兆如山陵.有夫出征.而喪其雄.姜氏曰.征者喪雄.禦寇之利也.大夫圖之.衛人追之.孫蒯獲鄭皇耳于犬丘.」
  6. ^ 襄公十四年:「衛獻公戒孫文子.寧惠子食.皆服而朝.日旰不召.而射鴻於囿.二子從之.不釋皮冠而與之言.二子怒.孫文子知戚.孫蒯入使.公飲之酒.使大師歌巧言之卒章.大師辭.師曹請為之.初.公有嬖妾.使師曹誨之琴.師曹鞭之.公怒.鞭師曹三百.故師曹欲歌之.以怒孫子.以報公.公使歌之.遂誦之.蒯懼.告文子.文子曰.君忌我矣.弗先.必死.并帑於戚.而入見蘧伯玉曰.君之暴虐.子所知也.大懼社稷之傾覆.將若之何.對曰.君制其國.臣敢奸之.雖奸之.庸知愈乎.遂行.從近關出.公使子蟜.子伯.子皮.與孫子盟于丘宮.孫子皆殺之.四月.己未.子展奔齊.公如鄄.使子行於孫子.孫子又殺之.公出奔齊.」
  7. ^ 襄公二十五年:「衛獻公自夷儀使與甯喜言.甯喜許之.」
  8. ^ 襄公二十六年:「二十有六年春.王二月.辛卯.衛甯喜弒其君剽.衛孫林父入于戚以叛.甲午.衛侯衎復歸于衛. 」

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  孫林父のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「孫林父」の関連用語

孫林父のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



孫林父のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの孫林父 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS