増田屋 (蕎麦屋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 14:33 UTC 版)
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増田屋(ますだや)は、日本の蕎麦屋の屋号の一つである。藪蕎麦、更科、砂場、満留賀などと同様に、増田屋の屋号を持つ蕎麦屋は各地に存在するが、その大半はのれん分けによって開業したものであり[1]、増田屋のれん会が組織されている。
特徴
1890年(明治23年)に当時の東京市麻布区笄町で開業した武久留吉がのれん分けの始祖とされ、1912年(明治45年)の古道文次による原宿店開業がのれん分け1号である[2]。大正から昭和初期の段階で増田屋は20店あり、1955年(昭和30年)に増田屋のれん会が創設される[3]。1963年(昭和38年)に「増」の字を丸で囲んだ増田屋の商標を登録[4]。
増田屋の商標を共同で利用する一方、他の蕎麦屋ののれん会と比較して各店の個性を尊重するのが特徴であり、大衆的な蕎麦屋から高級路線の蕎麦屋まで幅が広く、従業員の独立・のれん分けも各店の裁量で行われている[5][6]。1972年(昭和47年)に富士銀行と共同で「富士・増田屋のれん会ローン」を設けるなど、従業員の独立開業を支援する姿勢が強いことが特徴[3][5]。
また、古道文次が新潟県出身だったこともあり、各店の店主・従業員に新潟県出身者が多いことも特徴であり、田中角栄も増田屋のれん会の顧問に就任していた[3]。
歴史
明治初期に武久留吉が滋賀県から上京し、当時の東京市麻布区霞町にあった増田屋に奉公入り、1890年(明治23年)から1894年(明治27年)の頃に独立し、笄町(現渋谷区広尾)日赤病院前で開店する[3]。霞町店以前の増田屋の詳細は不明[3]、増田屋のれん会関係者は、明和から天明の頃の増田屋次郎介、増田屋半次郎が屋号の起源ではないかとしている[2][7]。武久留吉が経営する日赤病院前店に新潟県から上京した古道文次が修行に入り、1912年(明治45年)に原宿店を開店[2][3]。
1955年(昭和30年)に当時の増田屋20店を会員とする増田屋のれん会が創設され、1976年(昭和51年)時点で会員店舗は130店に拡大、東京都だけではなく神奈川県、埼玉県でも増田屋の開店が進む[5]。
2024年(令和6年)時点での増田屋のれん会の会員店舗は96店舗、東京都港区北青山の外苑前店がのれん会の会長になっている[8]。
脚注
- ^ 『中小企業の事業継続を助ける日本伝統の承継手法(のれん分け・社員独立)』一般社団法人中小企業診断協会、2019年、21頁 。
- ^ a b c “蕎麦の老舗、増田屋直系の店”. 広報誌「弥生」 (東京大学大学院農学生命科学研究科広報室) (48): 7. (2009-03-31).
- ^ a b c d e f “のれんの由来:増田屋”. 月刊食堂 : the food service management 別冊 (柴田書店): 116-118. (1975-06). doi:10.11501/2674696.
- ^ “商標出願・登録情報”. 特許情報プラットフォーム. 独立行政法人工業所有権情報・研修館. 2025年4月24日閲覧。
- ^ a b c “のれん集団活動報告”. そばうどん (柴田書店) (2): 303-313. (1976-05). doi:10.11501/12024052.
- ^ “増田屋の暖簾とは”. 西鶴間 増田屋 (2020年6月). 2025年4月18日閲覧。
- ^ “増田屋のれんとは”. 外苑前 増田屋 (2023年3月). 2025年4月18日閲覧。
- ^ “事業承継を機に店舗・メニューを大改革、女性客を中心に新規顧客層獲得を実現:トップが語る ウチのイチ押し!<東京都港区 有限会社外苑前増田屋>”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社 (2024年5月1日). 2025年4月24日閲覧。
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