南日俊夫
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南日俊夫(なんにち としお、1921年[1] - 2010年3月17日)は、海洋物理学博士。
生涯
「南日三兄弟」と称される南日恒太郎、とし子の10番目の子として生まれる。
東京帝国大学に海洋学の講座が開設された際に第一回生として日高孝次教授の下に馳せ参じ、日本海洋学会の創立に加わった。海洋学に進んだきっかけは父を海難事故で失ったことだという。
専攻は海洋物理。海況予報技術の向上、波浪関連の研究等をした。気象庁の赤松英雄技官と組んでは測器の試作改良にも力を注いだ。これらの総合的な成果として、1968年には海流の変動機構の研究で運輸大臣表彰を受賞している。そのほか学識経験者として 政府の審議会等の委員も多数務めた。[2]
1955年の三重県津市の橋北中学校水難事件裁判では、沿岸流(ロングショアカレント)説を陳述した。
家族
父母は、旧制富山高等学校(現 富山大学)初代学長で英文学者の南日恒太郎と、南日とし子。
兄弟には、南日凱夫(英文学者)、桜井志郎(参議院議員)などがいる。
妻・昌子との間に3人の子、元子・治子・俊彦がいる。俊彦は携帯電話や移動体通信の技術者。
経歴
- 気象庁気象研究所海洋研究部長
- アメリカ合衆国ワシントン州立大学 客員教授(1960年代)
- 運輸大臣賞受賞(1968年)
- 広島地方気象台長(1972年-?年)
- 日本海洋学会会長(1979年-1982年)
- 東京商船大学教授
人物エピソード
- 測流のために記録式測器を試作。神戸海洋気象台がそれを借用して遠州灘で測流観測を行った。 海面の推定流向流速と流速計による表 層の流れとが著しく異なる測定結果がでて面白い現 象が見つかったと喜んだが、念のため測器を分解すると方向指示が風向と同じ表示になっていることがわかり悦びは雲散霧消し た。それでも俊夫は測器製作者を怒りはせず 苦笑いして業者の教育をした。
- 酒に強く、首席でも乱れた姿は見せなかった[2]
著書
『海の物理学』紀伊国屋新書 、1963年
「東対馬水道の海況変動について(Secular Variation of Hydrographic Conditions in the East Tsushima Strait)南日俊夫・藤木明光 Tosio NAN-NITI and Akimitsu FUJIKI、1967年5月31日受理/1967年4月9日 日本海洋学会春季大会にて講演、日本海洋学会誌第23巻[3]
『日本における海洋学最近 10 年の歩み—海洋物理学』、1971年。吉田耕造ら 10 人と共同執筆 。俊夫は岩田と「乱流・拡散」を担当( 1971, p. 259)[4]
脚注
- ^ Web NDL Authorities
- ^ a b 日本海洋学会記事『海の研究 第19巻第4号』
- ^ 日本海洋学会誌 第23巻 第4号(1967)https://www.jstage.jst.go.jp/article/kaiyou1942/23/4/23_4_201/_pdf/-char/ja
- ^ 「戦後日本の地学(昭和20年~昭和40年)」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/125/2/125_125.269/_pdf
出典
日本海洋学会誌「海の研究 第19巻第4号」
日本海洋学会誌 第23巻第4号(1967)
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