北愛一
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北 愛一(きた ちかかず、生年不詳 - 寛永11年(1634年)6月7日)は戦国時代の武将で南部氏家臣。彦助。定愛(さだちか)とも言う。父は北信愛、母は南氏。弟に北秀愛、北直継、北愛邦がいる。子は直愛、愛言。
生涯
『参考諸家系図』によると、主君・南部信直から父・信愛の功により2050石を得ている。『岩手県史 第3巻』所載の系図では2150石とある。
『岩手県史』によれば、九戸政実の乱後、九戸側につき滅んだ旧一戸方の寺田館(寺田城)を領し2500石を知行している。また、寺田館へは北館から移ってきたとされる(『日本歴史地名大系』)。早くから所領を持って父・信愛から独立していたため、弟・秀愛と父・信愛の死で断絶した花巻北氏の名跡は継がなかった。また父・信愛が名跡継承を願わず死去してその所領が藩に接収されたため、愛一と弟・直継は新たに禄を得て家を興す形になったともされる[1]。
跡を子の直愛が2100石で継いだ。直愛の弟・愛言は分家した。しかし直愛の死後に跡を継いだ愛時は遺領のうち500石しか継げず、また愛時は病ですぐ隠居してしまい、子の岩松が早世して北氏嫡流は断絶した(『岩手県史』)。一方「参考諸家系図」によると、早世した岩松の家督は愛時の弟・愛紀が継いだとあり、愛紀は300石を知行した。のち当主自害によって一旦改易され、50石で再興され幕末に至った。
ただし息子・左衛門佐直愛については、弟・北主馬(秀愛)と同一人物とする説もある(『鹿角市史』他)。
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