何進滔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/07 09:54 UTC 版)
何 進滔(か しんとう、生年不詳 - 840年)は、唐代の軍人。魏博節度使。本貫は霊州霊武県。
経歴
魏博の食客として寄寓し、軍門を委ねられ、魏博節度使の田弘正に仕えた。田弘正が朝廷の命で鄆州を討ち、李師道を破ると、進滔は牙内都知兵馬使となり、功により侍御史を兼ねた。大和3年(829年)、魏博の軍衆が節度使の史憲誠を殺害し、進滔を知留後に立てた。朝廷により進滔は左散騎常侍・魏博等州節度観察処置等使に任じられた。魏博を統帥すること十数年、民衆の支持を得た。官は検校司徒・同中書門下平章事を歴任した。開成5年(840年)、死去した。太傅の位を追贈された。諡は定といった[1][2]。
家族
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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