上田琴風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/04 14:00 UTC 版)
上田琴風(うえだ きんぷう)は、江戸時代の女性画家。歌人。
生涯
天明7年(1787年)、周防国の庄屋、上田少蔵の長女、上田菊子として生まれる。父親の上田少蔵は生まれつき学問を好み、有名な学者や文人などの書物、書画、陶器などを収集、自らも「上田堂山」という号を使用し、詩や和歌などを嗜む人物だった[1]。
成長するにつれ、菊に豊かな素質があることに気づいた堂山は、上田家に出入りしていた漢学、国学、和歌などの文化人たちに教えを受けさせた[2]。先生となった人物には、堂山の援助で大学に進学した国学者の近藤芳樹や日本画家の矢野鉄山、菅紅嶺らがいた。菊は多くの面でその才能を開花させ、「琴風」と名乗るようになった[1][3]。
天保14年(1843年)、琴風は56歳で亡くなった。夫の光逸との間に生まれた清もその才能を受け継ぎ、琴波と号して和歌や書画でその名を残している[4]。

作品
現存している琴風の作品は、そのほとんどを花鳥画、山水画が占める[5]。
19世紀初頭の紙本、絹本の『菅家緒家書画帳』には文政4年、8年、9年の作品が収められている[6]。『五十二番画巻』にも作品が収録されている他、『博多千代松原図等画巻』に「周南佐埜嶺図」が収められている[7]。周南佐埜嶺図は、山陽道の峠、佐埜嶺から見える田園風景を鮮やかな色彩で描いた作品である[8]。
山口県文書館には、歌人としての作品として『上田琴風詠草』が所蔵されている[9]。
評価
江戸時代の文人の頼山陽は、上田家に来遊した際、琴風の描いた絵を高く評価し彼女に詩を送っている[3]。
アメリカの美術学者、パトリシア・フィスターは、琴風の作品について、19世紀前半の関西の画家とは異なり伝統的な中国の技法にとらわれず、大胆で角ばった筆遣いによってごつごつとした質感を表し、自然で独特な風格を備えていると評価している[5]。
脚注
出典
- ^ a b 朝日新聞社山口支局 1967, p. 83.
- ^ 朝日新聞社山口支局 1967, p. 82.
- ^ a b 板橋区立美術館 1991, p. 99.
- ^ 朝日新聞社山口支局 1967, p. 84.
- ^ a b パトリシア・フィスター 1994, p. 149.
- ^ 広島県立歴史博物館 1998, p. 67.
- ^ 広島県立歴史博物館 1998, p. 74.
- ^ 広島県立歴史博物館 1998, p. 78.
- ^ 東京桂の会 1994, p. 162.
参考文献
- 朝日新聞社山口支局『風雪百年:郷土を築いた人たち』謙光社、1967年。
- 板橋区立美術館『江戸の閨秀画家展図録 (江戸文化シリーズ ; 第11回)』板橋区立美術館、1991年。
- パトリシア・フィスター『近世の女性画家たち:美術とジェンダー』思文閣出版、1994年。ISBN 4-7842-0860-7。
- 広島県立歴史博物館『菅茶山とその世界 2』広島県立歴史博物館、1998年。
- 東京桂の会『江戸期おんな考 (5)』桂文庫、1994年。
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