ローラ・ハンディーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ローラ・ハンディーの意味・解説 

ローラ・ハンディー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/11 14:40 UTC 版)

ローラ・ハンディー
Laura Handy
選手情報
生年月日 (1980-07-25) 1980年7月25日(42歳)
出生地 アメリカ合衆国アトランティックシティ
身長 163 cm
元パートナー ジェレミー・アレン、ポール・ビネボーズジョナソン・ハント、ジェームズ・ピーターソン
元コーチ ロナルド・ルディントン、Jeff Digregorio、Tracey Poletis
元振付師 アルトゥール・ドミトリエフオレグ・オフシアンニコフ
ISUサイト バイオグラフィ
ISU パーソナルベストスコア
合計スコア 130.33 2003 ネーベルホルン杯
ショート 47.28 2003 ネーベルホルン杯
フリー 83.05 2003 ネーベルホルン杯
獲得メダル
フィギュアスケート
世界ジュニア選手権
1999 ザグレブ ペア
ジュニアグランプリファイナル
1998 デトロイト ペア
■テンプレート ■選手一覧 ■ポータル ■プロジェクト

ローラ・リン・ハンディー(Laura Lynn Handy、1980年7月25日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州アトランティックシティ出身の女性フィギュアスケート選手。1999年世界ジュニア選手権2位。パートナーはジェレミー・アレン、ポール・ビネボーズジョナソン・ハントなど。

経歴

ニュージャージー州のアトランティックシティに生まれ、5歳のころにスケートを始めた。ほどなくジェームズ・ピーターソンとペアを結成し、1996年の全米選手権ジュニアクラスに出場。翌1997年全米選手権ジュニアクラスで4位となったものの、シーズン終了後にペアは解散した。

1997年、ポール・ビネボーズと新たにペアを結成し、1998-1999年シーズンからISUジュニアグランプリに参戦。JGPSNPバンスカーでいきなり優勝を飾り、JGPファイナル及び世界ジュニア選手権では2位、シニアクラスで出場した1999年全米選手権では3位となり躍進を遂げた。翌1999-2000年シーズンよりISUグランプリシリーズへの参戦も決まっていた。しかし、シーズン開幕を控えた1999年9月、練習中にパートナーのポール・ビネボーズが頭蓋骨を骨折する大怪我を負い、二度とリンクに戻ることはなくペアは自然解散に至った。

2000年以降、ジョナソン・ハント、次いでジェレミー・アレンとペアを結成したものの、全米選手権やISUグランプリシリーズで表彰台に上ることはなかった。2003-2004年シーズンを最後に事実上の活動停止。

主な戦績

大会/年 1995-96 1996-97 1997-98 1998-99 1999-00 2000-01 2001-02 2002-03 2003-04
世界選手権 棄権
全米選手権 10 J 4 J 6 3 6 6 7 5
GPスケートアメリカ 8
GPスケートカナダ 8
GPロシア杯 9
ネーベルホルン杯 1 3 3
KSM 1
世界Jr.選手権 2
JGPファイナル 2
JGPブラオエン・シュベルター杯 2
JGPSNPバンスカー 1

詳細

2006-2007 シーズン
開催日 大会名 SP FP 結果
2003年9月3日-6日 ネーベルホルン杯(オベルシュトドルフ) 2
47.28
3
83.05
3
130.33

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ローラ・ハンディー」の関連用語

ローラ・ハンディーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ローラ・ハンディーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのローラ・ハンディー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS