ロバート・ド・ヴィアー (第3代オックスフォード伯)
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| ロバート・ド・ヴィアー Robert de Vere |
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| 第3代オックスフォード伯 | |
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ロバート・ド・ヴィアーの墓像
(ハットフィールド・ブロード・オーク修道院) |
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| 在位 | 1214年 - 1221年 |
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| 出生 | 1164年以降 |
| 死去 | 1221年10月25日以前 |
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| 配偶者 | イザベル・ド・ボールベック |
| 子女 | ヒュー エレノア |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | 初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアー |
| 母親 | アグネス・オブ・エセックス |
第3代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアー(Robert de Vere, 3rd Earl of Oxford, 1164年以降 - 1221年10月25日以前)は、イングランドの世襲の大侍従卿[1]。初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーとアグネス・オブ・エセックスの息子。兄の後を継いで第3代オックスフォード伯となり、マグナ・カルタの証人25人のうちの一人でもあった。
生涯
ロバート・ド・ヴィアーは、初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーとその3番目の妻アグネス・オブ・エセックスの次男として生まれた。生年月日は不明であるが、1164年以降に生まれた可能性が高い。1207年にデヴォンのトットネスのヘンリー・ド・ノナン(1206年没)の未亡人であるイザベル・ド・ボールベックと結婚するまで、その生涯についてはほとんど何も知られていない。
1206年から1207年にかけて、妻イザベルとその妹コンスタンスは、同じくオックスフォード伯爵夫人であった姪のイザベル・ド・ボールベックの共同相続人となった。姪イザベルはロバートの兄である第2代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーと結婚していた。二人はウィットチャーチ領を分割相続した[2]。
叔母と姪が同じ名前、イザベル・ド・ボールベックであり、どちらもオックスフォード伯爵夫人かつウィットチャーチの相続人であったためしばしば混同された[3]。
ロバートの兄である第2代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアが1214年後半に亡くなると、ロバートは兄の爵位と領地、そしてイングランド大侍従卿の世襲職を継承した。オーブリーの2番目の妻アリス(おそらく第2代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドの娘で、従兄弟の子にあたる)[4]の寡婦財産は正式には定められていなかった。1215年、ロバートは義姉の持参金をくじ引きで決定し、アリスが引いた1騎士分の金額に対し、ロバートは2騎士分の金額を引いた[5]。
ロバートはスタンフォードで会合した不満を抱く貴族たちに加わり、1215年6月15日にラニーミードでジョン王にマグナ・カルタ(大憲章)を発布するよう迫った。ロバートは、国王がマグナ・カルタの条項を遵守することを保証する貴族の一人に選出された。1215年12月16日、ロバートは他の貴族たちと共に教皇インノケンティウス3世から反逆者として破門され、フランス王子ルイに王位を献上する行為に加担した[6][7]。
ロバートはジョン王に対して武力行使に出たが、1216年3月にジョン王がヘディンガム城を陥落させた後、忠誠を誓った。しかし同年後半、ロチェスターでルイ王子に恭順の意を表した[8]。ルイはロンドンに入り、国王と宣言された。1216年6月14日、ルイはウィンチェスターを占領し、まもなくイングランドの半分以上を支配下に置いた[9]。
この危機の最中にジョン王が崩御し、多くの貴族がルイを見捨ててジョン王の9歳の息子ヘンリー3世を擁立した。1217年、ルイ王子はヘディンガム城を奪還し、ロバートに返還したが、それにもかかわらずロバートは1217年10月に新国王ヘンリー3世に忠誠を誓った。ヘンリー3世に臣従したとはいえ、職務と領地は1218年2月まで完全には回復されなかった。
ロバートは1220年から1221年にかけてヘンリー3世の判事を務め、1221年10月25日の少し前に亡くなった。
ロバートはハットフィールド・レジス修道院(ハットフィールド・ブロード・オーク修道院)に埋葬された。同修道院には、息子のヒュー・ド・ヴィアーか、孫の第5代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアのどちらかによって、鎖かたびらを身に着け、足を組んで、鞘から剣を抜き、ド・ヴィア家の紋章が描かれた盾を持つロバートの像が造られた[10]。
子女
ロバートといざバルの間には以下の子女が生まれた。
脚注
- ^ Richardson IV 2011, p. 261.
- ^ De Aragon 1898, pp. 278–9.
- ^ Cokayne 1945, p. 212, (g)(h).
- ^ Cokayne 1945, p. 210.
- ^ Cokayne 1945, p. 210.
- ^ Cokayne 1945, p. 211.
- ^ Richardson IV 2011, p. 261.
- ^ Cokayne 1945, pp. 211–212.
- ^ Harding 1993, p. 10.
- ^ “Hatfield Broad Oak”. An Inventory of the Historical Monuments in Essex,. Volume 2. p. 119 & plate 122 2025年10月29日閲覧。
- ^ Cokayne 1945, p. 210.
- ^ Cokayne 1945, p. 213, (b).
参考文献
- Cokayne, George Edward (1945). The Complete Peerage, edited by H.A. Doubleday. X. London: St. Catherine Press
- Richardson, Douglas (2011). Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families, ed. Kimball G. Everingham. IV (2nd ed.). Salt Lake City. ISBN 1460992709
- De Aragon, R. (1898). “Isabel de Bolebec, Countess of Oxford”. Oxford Dictionary of National Biography 56: 278-9.
- Harding, Alan (1993). England in the Thirteenth Century. Cambridge: Cambridge University Press
| イングランドの爵位 | ||
|---|---|---|
| 先代 オーブリー・ド・ヴィアー |
オックスフォード伯 1214年 - 1221年 |
次代 ヒュー・ド・ヴィアー |
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