ロバート・ド・ヴィアー_(第3代オックスフォード伯)とは? わかりやすく解説

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ロバート・ド・ヴィアー (第3代オックスフォード伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 04:23 UTC 版)

ロバート・ド・ヴィアー
Robert de Vere
第3代オックスフォード伯
ロバート・ド・ヴィアーの墓像
(ハットフィールド・ブロード・オーク修道院)
在位 1214年 - 1221年

出生 1164年以降
死去 1221年10月25日以前
埋葬 イングランド王国エセックス、ハットフィールド・ブロード・オーク修道院
配偶者 イザベル・ド・ボールベック
子女 ヒュー
エレノア
家名 ド・ヴィアー家
父親 初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアー
母親 アグネス・オブ・エセックス
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1215年に制定されたマグナ・カルタの現存するわずか4つのうちの1つ(大英図書館所蔵)

第3代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアー(Robert de Vere, 3rd Earl of Oxford, 1164年以降 - 1221年10月25日以前)は、イングランドの世襲の大侍従卿[1]。初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーとアグネス・オブ・エセックスの息子。兄の後を継いで第3代オックスフォード伯となり、マグナ・カルタの証人25人のうちの一人でもあった。

生涯

ロバート・ド・ヴィアーは、初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーとその3番目の妻アグネス・オブ・エセックスの次男として生まれた。生年月日は不明であるが、1164年以降に生まれた可能性が高い。1207年にデヴォンのトットネスのヘンリー・ド・ノナン(1206年没)の未亡人であるイザベル・ド・ボールベックと結婚するまで、その生涯についてはほとんど何も知られていない。

1206年から1207年にかけて、妻イザベルとその妹コンスタンスは、同じくオックスフォード伯爵夫人であった姪のイザベル・ド・ボールベックの共同相続人となった。姪イザベルはロバートの兄である第2代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーと結婚していた。二人はウィットチャーチ領を分割相続した[2]

叔母と姪が同じ名前、イザベル・ド・ボールベックであり、どちらもオックスフォード伯爵夫人かつウィットチャーチの相続人であったためしばしば混同された[3]

ロバートの兄である第2代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアが1214年後半に亡くなると、ロバートは兄の爵位と領地、そしてイングランド大侍従卿の世襲職を継承した。オーブリーの2番目の妻アリス(おそらく第2代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドの娘で、従兄弟の子にあたる)[4]の寡婦財産は正式には定められていなかった。1215年、ロバートは義姉の持参金をくじ引きで決定し、アリスが引いた1騎士分の金額に対し、ロバートは2騎士分の金額を引いた[5]

ロバートはスタンフォードで会合した不満を抱く貴族たちに加わり、1215年6月15日にラニーミードジョン王にマグナ・カルタ(大憲章)を発布するよう迫った。ロバートは、国王がマグナ・カルタの条項を遵守することを保証する貴族の一人に選出された。1215年12月16日、ロバートは他の貴族たちと共に教皇インノケンティウス3世から反逆者として破門され、フランス王子ルイに王位を献上する行為に加担した[6][7]

ロバートはジョン王に対して武力行使に出たが、1216年3月にジョン王がヘディンガム城を陥落させた後、忠誠を誓った。しかし同年後半、ロチェスターでルイ王子に恭順の意を表した[8]。ルイはロンドンに入り、国王と宣言された。1216年6月14日、ルイはウィンチェスターを占領し、まもなくイングランドの半分以上を支配下に置いた[9]

この危機の最中にジョン王が崩御し、多くの貴族がルイを見捨ててジョン王の9歳の息子ヘンリー3世を擁立した。1217年、ルイ王子はヘディンガム城を奪還し、ロバートに返還したが、それにもかかわらずロバートは1217年10月に新国王ヘンリー3世に忠誠を誓った。ヘンリー3世に臣従したとはいえ、職務と領地は1218年2月まで完全には回復されなかった。

ロバートは1220年から1221年にかけてヘンリー3世の判事を務め、1221年10月25日の少し前に亡くなった。

ロバートはハットフィールド・レジス修道院(ハットフィールド・ブロード・オーク修道院)に埋葬された。同修道院には、息子のヒュー・ド・ヴィアーか、孫の第5代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアのどちらかによって、鎖かたびらを身に着け、足を組んで、鞘から剣を抜き、ド・ヴィア家の紋章が描かれた盾を持つロバートの像が造られた[10]

子女

ロバートといざバルの間には以下の子女が生まれた。

  • ヒュー(1207年頃 - 1263年)[11] - 第4代オックスフォード伯
  • エレノア - ラルフ・ガーノンと結婚[12]

脚注

  1. ^ Richardson IV 2011, p. 261.
  2. ^ De Aragon 1898, pp. 278–9.
  3. ^ Cokayne 1945, p. 212, (g)(h).
  4. ^ Cokayne 1945, p. 210.
  5. ^ Cokayne 1945, p. 210.
  6. ^ Cokayne 1945, p. 211.
  7. ^ Richardson IV 2011, p. 261.
  8. ^ Cokayne 1945, pp. 211–212.
  9. ^ Harding 1993, p. 10.
  10. ^ “Hatfield Broad Oak”. An Inventory of the Historical Monuments in Essex,. Volume 2. p. 119 & plate 122. https://www.british-history.ac.uk/rchme/essex/vol2/pp116-122 2025年10月29日閲覧。 
  11. ^ Cokayne 1945, p. 210.
  12. ^ Cokayne 1945, p. 213, (b).

参考文献

  • Cokayne, George Edward (1945). The Complete Peerage, edited by H.A. Doubleday. X. London: St. Catherine Press 
  • Richardson, Douglas (2011). Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families, ed. Kimball G. Everingham. IV (2nd ed.). Salt Lake City. ISBN 1460992709 
  • De Aragon, R. (1898). “Isabel de Bolebec, Countess of Oxford”. Oxford Dictionary of National Biography 56: 278-9. 
  • Harding, Alan (1993). England in the Thirteenth Century. Cambridge: Cambridge University Press 
イングランドの爵位
先代
オーブリー・ド・ヴィアー
オックスフォード伯
1214年 - 1221年
次代
ヒュー・ド・ヴィアー



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