オーブリー・ド・ヴィアー (初代オックスフォード伯)
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| オーブリー・ド・ヴィアー Aubrey de Vere |
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| 初代オックスフォード伯 | |
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オックスフォード伯の居城ヘディンガム城
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| 在位 | 1141年 - 1194年 |
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| 出生 | 1115年ごろ |
| 死去 | 1194年12月26日 |
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| 配偶者 | ベアトリクス・ド・ブルブール |
| ユーフェミア | |
| アグネス・オブ・エセックス | |
| 子女 | オーブリー ラルフ ロバート ヘンリー アリス |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | オーブリー・ド・ヴィアー2世 |
| 母親 | アリス・ド・クレア |
初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアー(Aubrey de Vere, 1st Earl of Oxford, 1115年ごろ - 1194年12月26日)は、12世紀半ば、スティーブン王と皇后マティルダの間の王位継承争いに関わったイングランド貴族。
生涯
オーブリーは、大侍従長兼ロンドン長官であったオーブリー・ド・ヴィアー2世と、ギルバート・ド・クレアの娘アリス(1163年頃没)の息子である。
1136年か1137年、オーブリーはブルブール城主アンリの娘であり、パ=ド=カレーのギネ伯マナセスの外孫で相続人でもあるベアトリスと結婚した。1138年後半にマナセスが死去した後、オーブリーはギネを訪れ、フランドル伯ティエリーに臣従し、妻の権利によりギネ伯に叙せられた[1]。しかし、ベアトリスが病弱であったため、この結婚は成立しなかった可能性がある。
オーブリーは、1141年5月15日に大侍従長の地位を継承した。これは、スティーブン王と皇后マティルダの内戦の最中、父がロンドンで暴徒に殺害された後のことであった[2]。スティーブン王は1141年2月のリンカーンの戦いで捕虜になっていたため、オーブリーは皇后マティルダに忠誠を誓った。義理の兄である初代エセックス伯ジェフリーは、1141年7月にオーブリーに伯位を与える交渉を行ったようで、これはノルマンディーでヘンリー2世によって承認された。この特許状には、オーブリー・ド・ヴィアーはケンブリッジシャー伯領の三分の一収入権を得ることになっていた。ただし、同伯領がスコットランド王の支配下にある場合は、他の4つの称号から選択することができた。結局、オーブリーはオックスフォード伯位を得た[3]。エセックス伯ジェフリーは、1141年後半にスティーブン王が自由を取り戻したときにスティーブン王と和解し、オーブリー・ド・ヴィアも同様に和解した可能性が高い。
しかし1143年、スティーブン王はセント・オールバンズで両伯を逮捕した。両伯は自由を取り戻すため、城を国王に明け渡すことを余儀なくされた。エセックス伯は国王に反旗を翻すことで報復した。オーブリーは義兄を積極的かつ公然と支持することはなかったようである。
1144年から1146年の間に、ブルブール城主はオーブリーの同意を得て、娘ベアトリスの離婚手続きを進めた。これにより、オーブリーはギネ伯の地位を失った[4] 。
1151年頃、オーブリーはユーフェミアと結婚した。スティーブン王とその妻モード王妃は、ケンブリッジシャーのイクルトンの荘園をユーフェミアの婚姻財産として与えた。この結婚は長くは続かなかった。ユーフェミアは1154年に亡くなり、子どもはいなかった。ユーフェミアはコルン修道院に埋葬された。1152年5月3日、モード王妃はオックスフォード伯の居城ヘディンガム城で亡くなった[5]。1152年から1153年の冬、オーブリーはウォリングフォード包囲戦において国王に随伴し、1153年には「オーブリー伯爵」として重要な特許状に署名した。
1162年か1163年、オーブリーはレイリー領主ヘンリー・オブ・エセックスの娘アグネスを3番目の妻に迎えた。結婚当時、アグネスはおそらく12歳であった。結婚後まもなく、義父ヘンリー・オブ・エセックスは反逆罪で告発され、決闘に臨んだ(敗れたが、生き延びて修道院に隠遁した)。 1165年までに、オーブリーは結婚の無効を主張した。これは、アグネスが弟ジェフリー・ド・ヴィアーと婚約していたためとされたが、実際にはアグネスの父親が失脚し没落したためであった可能性が高い。アグネスがローマ教皇庁に訴えを起こした際、ロンドン司教が教皇に宛てた手紙によると、オーブリーは「妻を閉じ込め、教会への出席や外出を許さず、同棲も拒否した」と伝えられている。教皇はアグネスの側に立ち、結婚を有効と宣言したが、オーブリーはアグネスを妻として迎えることを拒否し続けた。アグネスの友人たちはロンドン司教に訴え、最終的に教皇アレクサンデル3世に訴えた。アレクサンデル3世は1171年か1172年に、司教に対しオーブリーにアグネスの妻としての権利を回復するか、禁錮刑と破門を受けるかの選択を命じるよう指示した[6]。オーブリーはアグネスとの間に、以下の子女をもうけた[7]。
- オーブリー(1163年頃 - 1214年) - 第2代オックスフォード伯
- ラルフ
- ロバート(1165年以降 - 1221年) - 第3代オックスフォード伯
- ヘンリー
- アリス
オーブリーは1173年から1174年にかけての内戦に従軍し、1173年9月29日にサフォークに上陸した第3代レスター伯ロバート・ド・ボーモント率いる軍の撃退に貢献した[8]。オーブリーは1189年9月3日、リチャード1世の戴冠式に出席した[9]。
1184年、オーブリーはウォルター・ド・ボルベックの娘イザベル・ド・ボルベックの後見権を得たが[注釈 1]、イザベルの領地の管理権は得られなかった。1190年、オーブリーはイザベルを長男で後継者となるオーブリー(後に第2代オックスフォード伯となる)と結婚させる権利を得るために500マークを支払った[9]。
オーブリーは1194年12月26日に亡くなり、コルン修道院に埋葬された。妻アグネスは夫より長生きし、後に夫の隣に埋葬された[9]。
オーブリーは、コルン修道院やハットフィールド・レジス修道院など、いくつかの修道院の後援者であった。オーブリーと妻はエセックスのヘディンガム城に小さな修道院を創建した。
注釈
- ^ 彼女の叔母であるイザベル・ド・ボルベックとは別人である。イザベルはヘンリー・ド・ノナンの未亡人で、オーブリーのもう一人の息子、後の第3代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーと結婚したウィッチチャーチのヒュー・ド・ボルベックの娘である。
脚注
- ^ Ardres 2011, pp. 86–87.
- ^ Cokayne 1945, pp. 198, 200.
- ^ Regesta Regum Anglo-Normannorum 1913, pp. 233–235.
- ^ Cokayne 1945, pp. 200–202.
- ^ Cokayne 1945, p. 202.
- ^ DeAragon 2007, pp. 200–216.
- ^ Cokayne 1945, pp. 113–114.
- ^ Crouch 2004.
- ^ a b c Cokayne 1945, p. 204.
参考文献
- Chibnall, Marjorie (2004). “Matilda (1102–1167)”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/18338. 2012年10月11日閲覧. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (
要購読契約) - Cokayne, George Edward (1945). The Complete Peerage, edited by H.A. Doubleday. X. London: St. Catherine Press
- Crouch, David (2004). “Vere, Aubrey (III) de, count of Guînes and earl of Oxford (d. 1194)”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/28204. 2012年10月11日閲覧. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Ardres, Lambert de (2011). L. Shopkow. ed. The History of the Counts of Guines and Lords of Ardres. University of Pennsylvania Press
- DeAragon, R. (2007). “The Child-bride, the Pope, and the Earl: The Marital Fortunes of Agnes of Essex”. Henry I and the Anglo-Norman World
- Regesta Regum Anglo-Normannorum. III. (1913)
| イングランドの爵位 | ||
|---|---|---|
| 爵位創設 | オックスフォード伯 1141年 - 1194年 |
次代 オーブリー・ド・ヴィアー |
| 先代 オーブリー・ド・ヴィアー |
大侍従長 1141年 - 1194年 |
次代 オーブリー・ド・ヴィアー |
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