レーモン・ベランジェ2世 (プロヴァンス伯)とは? わかりやすく解説

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レーモン・ベランジェ2世 (プロヴァンス伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/03 02:34 UTC 版)

レーモン・ベランジェ2世
Raimond Bérenger II
プロヴァンス伯
在位 1144年 - 1166年

出生 1135年
死去 1166年
ニース
配偶者 リクサ・シロンスカ
子女 ドゥース2世
家名 バルセロナ家
父親 プロヴァンス伯ベランジェ・レーモン1世
母親 メルグイユ女伯ベアトリス
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レーモン・ベランジェ2世フランス語:Raimond Bérenger II, 1135年 - 1166年)は、プロヴァンス伯(在位:1144年 - 1166年)。バルセロナ家における序数により、カタルーニャ語バランゲー・ラモン3世(Berenguer Ramon III)とも記される。

生涯

レーモン・ベランジェ2世は、プロヴァンス伯ベランジェ・レーモン1世とメルグイユ女伯ベアトリスの息子である。父方の祖父母はバルセロナ伯ラモン・バランゲー3世プロヴァンス女伯ドゥース1世、母方の祖父母はメルグイユ伯ベルナール4世とギヨメット・ド・モンペリエである。

1144年に父ベランジェ・レーモン1世がジェノヴァとの戦いにおいて戦死し、レーモン・ベランジェ2世がプロヴァンス伯位を継承した。その治世は、プロヴァンス伯領をめぐるボー家との戦いで不安定な状態であった。しかし、伯父ラモン・バランゲー4世が1147年にレーモン・ベランジェをプロヴァンス伯に復位させた。

ボー家との争いは1162年まで続き、最終的にボー家が降伏した。

1162年8月、レーモン・ベランジェはプロヴァンス支配の承認を神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世から得るため、伯父ラモン・バランゲー4世とともにトリノに向かった。帰路の途中で伯父ラモン・バランゲー4世は死去し、アラゴン王アルフォンソ2世にレーモン・ベランジェの後見が委ねられた。

レーモン・ベランジェはジェノヴァとの間に和平を確立させたが、1166年春にニースを獲得しようとしていた時に死去した。プロヴァンス伯領は最終的にアラゴン王アルフォンソ2世が継承した[1]

結婚と子女

1161年11月17日、ポーランド大公ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツアグネス・フォン・バーベンベルクの娘リクサ・シロンスカと結婚した。2人の間には1女が生まれた。

  • ドゥース2世(1162/3年 - 1172年) - プロヴァンス女伯(1166年 - 1167年)

脚注

  1. ^ Ubieto Arteta 1987, p. 240.

参考文献

先代
ベランジェ・レーモン1世
プロヴァンス伯
1144年 - 1166年
次代
ドゥース2世



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