リーパリ諸島の海戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > リーパリ諸島の海戦の意味・解説 

リーパリ諸島の海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/21 05:46 UTC 版)

リーパリ諸島の海戦

リーパリ諸島
戦争第一次ポエニ戦争
年月日:紀元前260年
場所シチリア島リーパリ
結果:カルタゴの勝利
交戦勢力
カルタゴ 共和政ローマ
指導者・指揮官
ボーデス
ハンニバル・ギスコ
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナ
戦力
約20隻 約17隻
損害
4隻 艦隊鹵獲
第一次ポエニ戦争

リーパリ諸島の海戦、またはリーパリ港の戦い(紀元前260年)は、第一次ポエニ戦争におけるカルタゴ共和政ローマの最初の海戦である。カルタゴ海軍の勝利に終わったが、これは正面からの激突ではなく待ち伏せ攻撃の結果であった。

序幕

アグリゲントゥムの戦いを含むシチリア島での陸戦の勝利の後、ローマは地中海を制圧するための艦隊の建造に乗り出した。2ヶ月という短期間の間に、ローマは約150隻の三段櫂船五段櫂船を建造し、兵を訓練するという命令を出した。ローマ貴族グナエウス・コルネリウス・スキピオ(その年の主席執政官)が最初に完成した17隻からなる艦隊の指揮官となり、メッサナに向けて出帆した。

戦闘

スキピオが海峡にあったときに、カルタゴ側にあったリーパリの駐屯兵がローマに降伏したがっているとの情報が届いた。次に起こったことはカルタゴの不誠実な行いとされるが、詳細は不明でまた親ローマ的な情報源によるものがほとんどである。ローマの水兵達は多少の海上での経験を詰んだという程度ではあったが、スキピオは戦闘を行わずにこの重要な港を手に入れるという誘惑にかられ、リーパリに向かった。その新造されたばかりのローマ艦隊が港に入ると、ハンニバル・ギスコ(アグリゲントゥムの敗将)とボーデスが指揮するカルタゴ艦隊の一部が待ち伏せしていたか、あるいはローマ海軍の動きを伝えられており、奇襲攻撃をかけた。ボーデスは20隻からなる艦隊を有しており、港内のローマ艦隊を封鎖した。スキピオとその艦隊は僅かに抵抗したのみであった。経験不十分な乗員はパニックを起こして脱走し、スキピオ自身も捕虜となった。偽情報を容易に信じてしまったスキピオは、軽蔑的にアシナというアグノーメン(添え名)を与えられたが、これはロバという意味である。アシナというのは女性名詞(男性名詞の場合はアシナス)であるため、さらに侮蔑的なものになった。

その後

リープラの敗戦は第一次ポエニ戦争に決着をつけた訳ではなく、スキピオ・アシナの経歴を終わらせたものではなかった。次席執政官のガイウス・ドゥイリウスが率いたローマ残存艦隊はミラエ沖の海戦で勝利を収めた。スキピオ・アシナも紀元前254年に執政官に復活している。

参考資料

座標: 北緯38度28分21秒 東経14度57分39秒 / 北緯38.472490度 東経14.960879度 / 38.472490; 14.960879




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「リーパリ諸島の海戦」の関連用語

リーパリ諸島の海戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



リーパリ諸島の海戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのリーパリ諸島の海戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS