リカルド・オチョア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:28 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はオチョア、第二姓(母方の姓)はパラシオスです。(Template:スペイン語圏の姓名) |
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個人情報 | ||||
本名 | Ricardo Otxoa Palacios リカルド・オチョア・パラシオス |
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生年月日 | 1974年8月30日 ビスカヤ県バラカルド |
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没年月日 | 2001年2月15日(26歳没) アンダルシア州マラガ県カルタマ |
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国籍 | ![]() |
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チーム情報 | ||||
分野 | ロードレース | |||
役割 | 選手 | |||
プロ所属チーム | ||||
1996-1998
2000-2001 |
オンセ ケルメ |
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グランツール最高成績 | ||||
最終更新日 |
リカルド・オチョア・パラシオス(バスク語: Riardo Otxoa Palacios、1974年8月30日 - 2001年2月15日)は、スペイン・バスク地方のビスカヤ県バラカルド出身の自転車競技選手[1]。2001年2月15日の練習中に交通事故死した。ハビエル・オチョアは双子の兄。
経歴
1974年8月30日にバスク地方のビスカヤ県バラカルドに生まれた。双子の兄にハビエル・オチョアがいる。1996年にオンセとプロ契約を交わし、1998年まで同チームに所属した。1999年には再びアマチュア選手となったが、2000年にはケルメ・コスタ・ブランカと契約し、兄のハビエル・オチョアと同じチームとなった。ジロ・デ・イタリア 2000では全体42位となった。
2001年2月15日、リカルド・オチョアと兄のハビエル・オチョアはマラガ近郊で練習していた際に自動車にはねられ、リカルドは即死した。26歳だった。ハビエルは昏睡状態に陥ったものの[2]、やがて意識が戻った。ハビエルは2004年のアテネパラリンピックと2008年の北京パラリンピックに出場し、金メダル2個と銀メダル2個を獲得している。
故郷のバラカルドに近いゲチョを舞台とするシルクイト・デ・ゲチョは、2001年から大会名に「リカルド・オチョア記念」を冠している。
成績
- 1999年
- ボルタ・ア・リェイダ 3位
- 2000年
- GPリョディオ 3位
脚注
- ^ “Ricardo Otxoa”. ProCyclingStats. 2018年3月30日閲覧。
- ^ “Cycling Memorials – Ricardo and Javier Otxoa”. Daily Peloton (2003年9月25日). 2018年8月22日閲覧。
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