メタウルスの戦いとは? わかりやすく解説

メタウルスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/21 05:59 UTC 版)

メタウルス川の戦い

第二次ポエニ戦争要図
戦争第二次ポエニ戦争
年月日紀元前207年
場所メタウルス川
結果:ローマの勝利
交戦勢力
ローマ カルタゴ
指導者・指揮官
ガイウス・クラウディウス・ネロ
マルクス・リウィウス・サリナトル
ハスドルバル・バルカ
戦力
37,000 50,000
損害
不明 不明
第二次ポエニ戦争

メタウルス川の戦いは、紀元前207年イタリアメタウルス川畔で起きた、ローマ軍とカルタゴ軍との戦いである。

前段階

大スキピオによってカルタゴ・ノウァを失陥し、バエクラの戦いでも敗れたカルタゴ軍は、南イタリアマグナ・グラエキア)にいるハンニバルと合流することで戦況を逆転しようとした。ハンニバルの弟ハスドルバルの指揮するカルタゴ軍は、アルプスを越えイタリア半島に侵入した。

一方のローマ軍は兄弟の合流を防ぐため、マルクス・リウィウス・サリナトル指揮の2個軍団を急派して追跡させた。また、ハスドルバルがハンニバルに送った密使が、ハンニバルと対峙していたガイウス・クラウディウス・ネロの軍勢に捕えられた。ネロは密かに南イタリアからハスドルバルの軍勢を追うために、7千の軍勢を指揮して北イタリアに急行した。

戦闘状況

ローマ軍に捕捉されたハスドルバルは、メタウルス川を戦場に選んだ。

メタウルスの戦いの布陣図

ハスドルバルは象を投入したが暴れて役に立たなかったため、象を殺して戦闘に突入した。ハスドルバルは当初兵力がローマ軍より多く、優勢だったが、執政官ネロは自軍の右翼からメタウルス川の岸に移動し、カルタゴ軍の右翼を攻撃し、地形を利用してカルタゴ軍を包囲し、殲滅した。混乱の中でハスドルバルは戦死した。

戦後と影響

ハスドルバルの首は剥製にされ、ハンニバルの陣営に投げ込まれた。この時までハンニバルは、ハスドルバルのイタリア到着と死を知らなかったという。この戦いでの敗戦により、カルタゴ勝利の可能性は消え、ハンニバルはイタリア半島の先端に閉じ込められることになった。なお、執政官リウィウスの担当していた戦線で起こった戦いだったため、執政官ネロに凱旋式挙行は許されなかった。





固有名詞の分類

このページでは「ウィキペディア」からメタウルスの戦いを検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からメタウルスの戦いを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からメタウルスの戦い を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メタウルスの戦い」の関連用語

メタウルスの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メタウルスの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメタウルスの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS