マファルダ・デ・ポルトゥガル (1153生)とは? わかりやすく解説

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マファルダ・デ・ポルトゥガル (1153生)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/03 15:25 UTC 版)

マファルダ・デ・ポルトゥガル
Mafalda de Portugal
ボルゴーニャ家

出生 1153年
ポルトガル王国コインブラ
死去 1162年以降
ポルトガル王国、コインブラ
父親 ポルトガル王アフォンソ1世
母親 マファルダ・デ・サボイア
宗教 キリスト教カトリック教会
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マファルダ・デ・ポルトゥガルポルトガル語: Mafalda de Portugal, 1153年[1][2] - 1162年以降)は、ポルトガル王アフォンソ1世マファルダ・デ・サボイアの第4子、三女である[1][2]

生涯

1160年1月、父アフォンソ1世とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世はマファルダと3歳か4歳の王子アルフォンソ(後のアラゴン王アルフォンソ2世)との結婚を交渉した[3][4]。1162年夏にラモン・バランゲー4世が死去した後、レオン王フェルナンド2世はマファルダとアルフォンソの結婚話を取りやめ、代わりにアルフォンソ7世とその2番目の妃リクサ・シロンスカの娘サンチャとアルフォンソを結婚させるよう、アラゴン女王ペトロニラを説得した[5]

1174年にマファルダの弟サンシュ(後のポルトガル王サンシュ1世)がアルフォンソ2世の妹であるアラゴン王女ドゥルセと結婚しており、このことはポルトガルとアラゴンの間の長期にわたる良好な関係を損なうものとはならなかった[6][7]

脚注

  1. ^ a b Rodrigues Oliveira 2010, p. 71.
  2. ^ a b Mattoso 2014, p. 226.
  3. ^ Caetano de Souza 1735, p. 60.
  4. ^ Rodrigues Oliveira 2010, p. 78.
  5. ^ Mattoso 2014, pp. 287–288, 290.
  6. ^ Mattoso 2014, pp. 290, 334.
  7. ^ Rodrigues Oliveira 2010, p. 83.

参考文献

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、マファルダ・デ・ポルトゥガルに関するカテゴリがあります。




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