マティルド・ド・フランスとは? わかりやすく解説

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マティルド・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:14 UTC 版)

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マティルド・ド・フランス
Mathilde de France
ブルグント王妃
在位 964年 - 981/2年

出生 943年
死去 981年11月26日/982年1月27日
埋葬 ブルグント王国ヴィエンヌ大聖堂
結婚 964年
配偶者 ブルグント王コンラート
子女 ゲルベルガ
ベルタ
ルドルフ3世
マティルデ
家名 カロリング家
父親 西フランク王ルイ4世
母親 ゲルベルガ・フォン・ザクセン
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マティルド・ド・フランス(フランス語:Mathilde de France, 943年 - 981年11月26日/982年1月27日)は、ブルグント王コンラートの王妃。

生涯

マティルドは西フランク王ルイ4世ゲルベルガ・フォン・ザクセン神聖ローマ皇帝オットー1世の妹)との間に943年に生まれた。マティルドが生まれた頃にはすでにカロリング家の権力は弱体化していた。父ルイ4世は治世の安定のため東フランク王女と結婚し、一方でノルマンディー公や敵対するロベール家ユーグ大公と争った。

954年にマティルドの兄ロテールが西フランク王位を継承し、母ゲルベルガが摂政となった。964年、マティルデは937年よりブルグント王となっていたコンラートと結婚した[1]。コンラートは962年以降、マティルドの伯父でコンラートの姉アーデルハイトの夫でもあった神聖ローマ皇帝オットー1世の支援に大きく頼っていた。マティルドは持参金として、兄ロテールから譲られたヴィエンヌをコンラートにもたらした[2]

マティルドは981年または982年に夫より先に死去し、ヴィエンヌ大聖堂に埋葬された。

子女

脚注

  1. ^ a b Burgundy and Provence, 879-1032, Constance Brittain Bourchard, The New Cambridge Medieval History: Volume 3, c.900-c.1024, ed. Rosamond McKitterick and Timothy Reuter, (Cambridge University Press, 1999), p. 342.
  2. ^ Burgundy and Provence, 879-1032, Constance Brittain Bourchard, The New Cambridge Medieval History: Volume 3, c.900-c.1024, p. 335.



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