ペドロ・ロメロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/03 08:03 UTC 版)
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はロメロ、第二姓(母方の姓)はマルティネスです。 |
ペドロ・ロメロ | |
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ゴヤによる『闘牛士ペドロ・ロメロの肖像』
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生誕 | Pedro Romero Martínez 1754年11月19日 ロンダ |
死没 | 1839年2月20日 |
国籍 | ![]() |
職業 | 闘牛士 |
ペドロ・ロメロ・マルティネス(スペイン語: Pedro Romero Martínez, 1754年11月19日 - 1839年2月10日)は、スペイン・ロンダ出身の闘牛士。
経歴

祖父のフランシスコ・ロメロは、乗馬せずにムレータ(赤い布)を用いて闘牛を翻弄する芸術的な闘牛を発展させた人物である。ペドロ・ロメロの父親と2人の兄弟もやはり闘牛士だった。1772年には若くしてアルヘシラスとセビリアでの闘牛に参加し、1775年には父親やホアキン・ロドリゲス(コスティリャーレス)とともにマドリードでの闘牛に参加した。1776年には285頭の闘牛にとどめを刺し、名声を確固たるものとした。1799年に引退するまでに、いちども重傷を負うことはなく、5,558頭の闘牛を相手にしたとされている[1]。
闘牛士としての生活を終えた後、ペドロ・ロメロはセビリアの闘牛学校の校長に就任した[2]。この闘牛学校は1830年から1832年までしか開校しなかったが、学生に対して多くの知識を与え[2]、ここで近代闘牛の様式を確立した[3]。
1795年から1798年には、画家のフランシスコ・デ・ゴヤが連作『闘牛士ペドロ・ロメロの肖像』を製作しており、現在ではアメリカ合衆国のキンベル美術館に所蔵されている。アメリカ人小説家アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』には、若くて美しくとても芸術的な闘牛士「ペドロ・ロメロ」が登場するが、ペドロ・ロメロ・マルティネスがモチーフになったと考えられている。
ロメロ家
- フランシスコ・ロメロ(1700-1763) : ペドロ・ロメロの祖父。
- フアン・ロメロ(生没年不明) : ペドロ・ロメロの父。
- ホセ・ロメロ(生没年不明) : ペドロ・ロメロの兄。
- ペドロ・ロメロ(1754-1839)
- フアン・ロメロ(生没年不明) : ペドロ・ロメロの父。
脚注
- ^ Fuentes, Carlos (1999). The Buried Mirror: Reflections on Spain and the New World. Mariner Books. ISBN 9780395924990.
- ^ a b Mande, Miriam B. (2009). A Companion to Hemingway's Death in the Afternoon. Camden House. p. 113 2013年1月23日閲覧。.
- ^ Robertson, Ian (1980). Spain, the mainland (Fourth ed.). E. Benn. p. 516 2013年1月23日閲覧。.
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