プブリウスデキウスムス (紀元前279年の執政官)とは? わかりやすく解説

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プブリウス・デキウス・ムス (紀元前279年の執政官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/12 07:57 UTC 版)


プブリウス・デキウス・ムス
P. Decius P. f. P. n. Mus
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 デキウス氏族
官職 執政官 I(紀元前279年)
補充執政官 II(紀元前265年)
指揮した戦争 アスクルムの戦い(紀元前279年)
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プブリウス・デキウス・ムスラテン語: Publius Decius Mus紀元前3世紀、生没年不明)は共和政ローマプレブス出身の政治家将軍祖父、父共に自軍の勝利のために自らを生け贄に捧げた伝説を持つ。

経歴

一族の伝説を描いたルーベンス画、『デキウス・ムスの聖別』(1616-1617年)

最初のコンスルシップ

デキウスは同名の父親の子であり、紀元前279年に執政官となった。同年のアスクルムの戦いエピロス王ピュロスと戦い、敗れはしたものの、キケロが「敵の武器に身を投げ出」したと述べたように奮戦し、後に「ピュロスの勝利」と言われるほどに敵に多くの損害を強いた[1][2]

二度目のコンスルシップ

紀元前265年、ウォルシニでは解放奴隷が当地の元老院の実権を握り、元の主人を過酷に扱っていたためローマへ救援を求めた。派遣された彼は解放奴隷の多くを殺し、残りは再び奴隷として元の主人に戻したという[3]。ヨハネス・ゾナラスなどの記録によると、最初当年の執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲスが送り込まれたものの、負傷し死亡してしまったため、デキウスが補充執政官として選出され代わりに送り込まれた。

  1. ^ キケロ, I. 37
  2. ^ プルタルコス, 「ピュロス」, 21
  3. ^ アウレリウス・ウィクトル, 36

参考文献および参考URL


公職
先代
プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス
ティベリウス・コルンカニウス
ローマ執政官 I
紀元前279年
同僚はプブリウス・スルピキウス・サウェッリオ
次代
ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス
クィントゥス・アエミリウス・パプス
先代
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス
ルキウス・マミリウス・ウィトゥルス
ローマの補充執政官 II
紀元前265年
同僚はルキウス・マミリウス・ウィトゥルス
次代
アッピウス・クラウディウス・カウデクス
マルクス・フルウィウス・フラックス



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