フランツィスカ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストとは? わかりやすく解説

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フランツィスカ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/28 14:47 UTC 版)

フランツィスカ
Franziska
ホーエンローエ=シリングスフュルスト家

称号 オーストリア大公妃
出生 (1897-06-21) 1897年6月21日
オーストリア=ハンガリー帝国テプリッツ
死去 (1989-06-12) 1989年6月12日(91歳没)
 オーストリアザルツブルク
配偶者 マクシミリアン・オイゲン・フォン・エスターライヒ
子女 フェルディナント
ハインリヒ
父親 コンラート・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト
母親 フランツィスカ・フォン・シェーンボルン=ブーフハイム
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フランツィスカ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストFranziska zu Hohenlohe-Schillingsfürst, 1897年6月21日 - 1989年6月12日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の皇族、オーストリア大公妃(Erzherzogin von Österreich)。最後の皇帝カール1世の義妹にあたる。

生涯

ツィスライタニエン首相を務めた政治家コンラート・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト英語版侯子とその妻の伯爵令嬢フランツィスカ・フォン・シェーンボルン=ブーフハイムの間の第5子、次女として生まれる。フランツィスカ・マリア・アンナ(Franziska Maria Anna)と名付けられた。ドイツ帝国宰相を務めたクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯の姪孫であり、フランツ・リストの恋人として知られるカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインの曾孫でもある。

マクシミリアン・オイゲンとフランツィスカ(1917年)

1917年11月29日にラクセンブルク英語版において、皇弟マクシミリアン・オイゲン大公と結婚した。

第1次世界大戦後、二重帝国の崩壊とともに皇族の身分を失い、夫ともども国外に追放された。ミュンヘンシュタルンベルク湖畔で「ヴェルンブルク伯爵夫人(Gräfin von Wernberg)」と名乗って暮らし、この界隈では「ファニー大公妃(Erzfanny)」の通称で呼ばれた。ミュンヘンで高級ブティックを経営して成功させた。

子女

夫との間に2人の息子をもうけた。

  • フェルディナント・カール・マックス・フランツ・オットー・コンラート・マリア・ヨーゼフ・イグナティウス・ニコラス(1918年 - 2004年) - 1956年、伯爵令嬢ヘレーネ・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ[注釈 1]と結婚
  • ハインリヒ・カール・マリア(1925年 - 2014年) - 1961年、ルドミラ・フォン・ガレンと結婚

脚注

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  1. ^ テーリンク=イェッテンバッハ伯爵カール・テオドールとギリシャ王女エリサヴェト夫妻の娘

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