カール・テオドール・ツー・テーリンク=イェッテンバッハとは? わかりやすく解説

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カール・テオドール・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 06:36 UTC 版)

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カール・テオドール・クレメンス・ツー・テーリンク=イェッテンバッハKarl Theodor Klemens Graf zu Toerring-Jettenbach, 1900年9月22日 ヴィンヘリンクドイツ語版 - 1967年5月14日 ミュンヘン)は、ドイツバイエルン州(旧バイエルン王国)の貴族、実業家。伯爵。

ハンス・ファイト・ツー・テーリンク=イェッテンバッハ伯爵とその妻のバイエルン公女ゾフィーの間の長男として生まれ、1929年の父の死に伴いテーリンク伯爵家家長となった。1934年にギリシャ王女エリサヴェトと結婚した。1月9日にミュンヘンで民事婚が、翌1月10日にゼーフェルト城ドイツ語版で宗教婚が行われた。伯爵夫妻はヴィンヘリンクのフラウエンビュール城ドイツ語版を住まいとした。この結婚を通じて、ユーゴスラビア摂政王子パヴレイギリスケント公ジョージ王子と義兄弟となった。家族・親族の間では「トート(Toto)」の愛称で呼ばれていた。

1935年、ミュンヘンにおける一家の居宅をカロリーネ広場ドイツ語版に面したテーリンク宮殿(Palais Toerring)からキュヴィリエ通り8の10番地の邸宅に移した。カロリーネ広場の旧邸宅は後に「褐色館」と呼ばれたナチ党本部会館の一部に編入された。

1939年7月、義兄のユーゴスラビア王子パヴレがドイツを訪問した。バルセロナ伯フアンの証言によると、パヴレは1939年7月2日、義弟テーリンクを伴い、カッセルベルヴュー宮殿ドイツ語版においてゲーリング調査局局長クリストフ・フォン・ヘッセンと会食している[1]。親独的な姿勢を続けたパヴレは、1941年3月に日独伊三国同盟への加盟調印を行ったことが原因で失脚し、摂政の座を追われた。

1952年12月18日、ハンガリー人発明家エトムント・ウーヘルドイツ語版とともに音響機器メーカー・ウーヘルドイツ語版を設立した[2]

妻エリサヴェトとの間に1男1女をもうけた。

  • ハンス・ファイト・カスパー・ニコラウス(1935年 - ) - 1964年、ホーエンローエ=バルテンシュタイン侯女ヘンリエッテ[3]と結婚
  • ヘレーネ・マリーナ・エリーザベト(1937年 - ) - 1956年、オーストリア大公フェルディナント[4]と結婚

脚注

  1. ^ Jonathan Petropoulos, Royals and the Reich: The Princes Von Hessen in Nazi Germany S. 163
  2. ^ Gesellschaftsvertrag vom 18. Dezember 1952 und 16. Januar 1953.
  3. ^ ホーエンローエ=バルテンシュタイン=ヤークストベルク侯ヨハネスドイツ語版の孫娘。
  4. ^ オーストリア皇弟マクシミリアン・オイゲン大公の長男。



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