ファーカーマギリヴリーノウルズとは? わかりやすく解説

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ファーカー・マギリヴリー・ノウルズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/25 03:39 UTC 版)

ファーカー・マギリヴリー・ノウルズ
Farquhar McGillivray Knowles
生誕 1859年5月22日
Elora, Ontario
死没 1932年4月9日
トロント

ファーカー・マギリヴリー・ノウルズ(Farquhar McGillivray Knowles RCA、1859年5月22日1932年4月9日)はカナダの画家である。港や海岸を描いた風景画で知られる。

略歴

オンタリオ州ウェリントン郡のEloraでスコットランド系の移民の息子に生まれた[1]ゲルフの学校で学んだ後、アイルランド海兵隊(Royal Hibernian Marine)の軍人であった祖父の影響で、1877年ころアメリカの陸軍士官学校に進んだ。4年次になって重大な事故を経験し、軍人となることを止めた[2]

ニューヨークに移り、写真の修整する仕事につき、ニューヨークの美術学校でも学んだ[2]。カナダに戻り、トロントの写真家、ウィリアム・ノットマンとジョン・アーサー・フレーザーのスタジオで働き、裕福な顧客の肖像写真に手彩色する仕事などをした[3]。スタジオの経営者の一人、フレーザーは水彩画家としても知られていて、ノウルズはフレーザーから水彩画を学んだ。

1885年にはヨーロッパに渡り、イギリスやフランスで学んだ。結婚したが1887年に妻は亡くなった[2]。1889年に王立カナダ美術アカデミー(Royal Canadian Academy of Arts)の準会員に選ばれ、1890年にノウルズが絵を教えたエリザベス・アニー・ビーチと再婚した[2]。新しい妻はカナダの有名な画家、ベル=スミス(Frederic Marlett Bell-Smith)の姪であった[3]。1891年に夫妻でヨーロッパに渡り、イギリスで2年間、フーベルト・フォン・ヘルコマーに学び、パリで4年間、ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンジャン=ポール・ローランス、アンリ・ジェルヴェ(Henri Gervais)らに学んだ[2]

夫妻はカナダに帰国すると、トロントにスタジオを開き、美術学校を開いた。多くのトロントの芸術家は夫妻のスタジオに集まるようになり、裕福な顧客の邸の装飾画も描いた。1916年にはニューヨークの港に停泊したヨットで暮らし、港の風景を描いた。その後、トロントで暮らしたりニューヨークで暮らしながら、王立カナダ美術アカデミーの定期展覧会に出展した。

油彩や水彩で描いた海岸の風景画で人気があった。

作品

脚注

参考文献




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