ビクトル・ウーゴ・アンテロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 15:19 UTC 版)
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名前 | ||||||
本名 | ビクトル・ウーゴ・アンテロ・バルバ Víctor Hugo Antelo Bárba |
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愛称 | Tucho | |||||
ラテン文字 | Víctor Hugo Antelo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1964年11月2日(57歳) | |||||
出身地 | サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ | |||||
身長 | 180cm[1] | |||||
体重 | 75kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
代表歴 | ||||||
1985-1999 | ![]() |
11 (2) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ビクトル・ウーゴ・アンテロ(Víctor Hugo Antelo Bárba、1964年11月2日 - )は、ボリビア出身の元サッカー選手。ボリビアリーグ通算350得点は同リーグの歴代最多記録である。
経歴
アマチュアクラブのウニベルシダで本格的なキャリアをスタートさせる。1983年、18歳の時オリエント・ペトロレロと契約。選手キャリアの大半をボリビア国内で過ごすが、短期間だけ日本サッカーリーグ2部のフジタサッカークラブでプレーした(登録名はビクトル・ウーゴ[1])。
ボリビアリーグ得点王のタイトルを7回獲得[2]、1998年には12試合連続得点を記録しリーグ通算得点歴代2位のファン・カルロス・サンチェスの連続得点記録を破った。コパ・リベルタドーレスでは46試合出場、21得点をマークしている。[3]
このようなクラブでの実績にも関わらずアンテロはボリビア代表に招集される機会は少なく、11試合出場を記録するに止まった。
所属クラブ
オリエンテ・ペトロレロ 1983-1988
レアル・サンタクルス 1989
ブルーミング 1990
フジタサッカークラブ 1990-1991
ブルーミング 1991
クラブ・ボリバル 1992
サン・ホセ 1993
クラブ・ボリバル 1994
レアル・サンタクルス 1995
ザ・ストロンゲスト 1996
ブルーミング 1997-2001
個人成績
日本国内成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | フジタ | JSL2部 | 19 | 19 | 1 | 1 | |||||
通算 | 日本 | JSL2部 | 19 | 19 | 1 | 1 | |||||
総通算 |
- JSL(2部)初出場:1990年9月8日 対日立製作所戦(日立柏総合グラウンド)
- JSL(2部)初得点:1990年9月16日 対京都紫光クラブ戦(京都府立山城運動公園太陽が丘陸上競技場)
参考文献
- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
脚注
- ^ a b c 『1990-1991JSLイヤーブック』p70
- ^ Bolivia - Topscorers
- ^ Players in the Copa Libertadores
固有名詞の分類
藤和不動産サッカー部の選手 |
渡辺三男 松山博明 ビクトル・ウーゴ・アンテロ 本吉剛 アデマール・ペレイラ・マリーニョ |
ボリビアのサッカー選手 |
サミュエル・ガリンド ロルヒオ・アルバレス ビクトル・ウーゴ・アンテロ オスカル・カルメロ・サンチェス フリオ・セサール・バルディビエソ |
ボリビアのサッカー指導者 |
ビクトル・ウーゴ・アンテロ フリオ・セサール・バルディビエソ |
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