ノーラ・フッガー・フォン・バーベンハウゼンとは? わかりやすく解説

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ノーラ・フッガー・フォン・バーベンハウゼン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/20 00:55 UTC 版)

エレオノーラ(ノーラ)・アロイジア・マリア・フッガー・フォン・バーベンハウゼンEleonora(Nora) Aloysia Maria Fürstin Fugger von Babenhausen, 1864年10月4日 バルテンシュタインドイツ語版/シュロツベルク - 1945年3月1日 ウィーン)は、オーストリアの貴族女性、サロン主宰者。結婚前の姓名はエレオノーラ・ツー・ホーエンローエ=バルテンシュタイン・ウント・ヤークストベルク(Eleonora Prinzessin zu Hohenlohe-Bartenstein und Jagstberg)。

生涯

ホーエンローエ=バルテンシュタイン=ヤークストベルク侯カール(1837年 - 1877年)とその妻の伯爵令嬢レオポルディーネ・フォン・シュテルンベルク(1836年 - 1918年)の間の第3子、次女として生まれた。

1887年1月8日にウィーンにおいて、カール・フッガー・フォン・バーベンハウゼン侯爵(1861年 - 1925年)と結婚し、間に6人の子女をもうけた。夫はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の侍従として宮中に仕えており、また兄ヨハネスが1901年にトスカーナ大公フェルディナンド4世の娘アンナを妻に迎えるなど、オーストリア帝室との縁故に恵まれていた。

結婚後、ウィーンで有力なサロンの主宰者となり、社会への鋭い観察眼と批評で名声を高めた。1898年に皇后エリーザベトが死去した後、パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人とともに帝政末期のウィーン貴族社交界を代表する立場となり、社交界の「偉大な女主人(Grande Dame)」と呼ばれた。1932年に自叙伝『帝政時代の栄華の中で(Im Glanz der Kaiserzeit)』を出版した。

夫との間の6人(2男4女)の子女は以下の通り。1919年までは婚家の家憲に基づき、家長たる侯爵を除く成員は全て伯爵の称号で呼ばれていた。

  • フリーデリケ(1887年 - 1949年) - 1908年、イギリス陸軍少将エイドリアン・カートン・デ・ウィアートと結婚
  • ゲオルク(1889年 - 1934年) - フッガー=バーベンハウゼン侯家家長、1914年に伯爵令嬢エリーザベト・フォン・プレッセンと結婚
  • シルフィア(1892年 - 1949年) - 1925年、フリードリヒ・ツー・ミュンスター=グロートハウス伯爵と結婚
  • レオポルト(1893年 - 1966年) - ドイツ国防軍空軍少将、1924年に伯爵令嬢ヴェーラ・チェルニーンと結婚(1936年離婚)[1]
  • マリア・テレジア(1899年 - 1994年) - 1921年、ハーナウ侯家家長ハインリヒ[2]と結婚
  • ヘレーネ(1908年 - 1915年)

著書

脚注

  1. ^ ヴェラは1938年に前オーストリア連邦首相クルト・シュシュニックと再婚している。
  2. ^ フリードリヒ・フォン・ハーナウ=ホロヴィッツ侯子の孫息子。出生時はシャウムブルク伯爵だったが、1917年に死去した大叔父ハインリヒよりハーナウ侯爵家の家督と資産を継承した。



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