ドースト・アリー・ハーンとは? わかりやすく解説

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ドースト・アリー・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/18 04:40 UTC 版)

ドースト・アリー・ハーン
Dost Ali Khan
カルナータカ太守
在位 1732年 - 1740年
別号 ナワーブ

出生 生年不詳
死去 1740年5月20日
アルコット近郊ダーマルチェルヴ
子女 サフダル・アリー・ハーン
王朝 ナワーヤト朝
父親 グラーム・アリー・ハーン
宗教 イスラーム教
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ドースト・アリー・ハーン(Dost Ali Khan, 生年不詳 - 1740年5月20日)は、南インドカルナータカ太守(在位:1732年 - 1740年)。

生涯

1713年カルナータカ太守サアーダトゥッラー・ハーンムガル帝国から独立したのち、兄グラーム・アリー・ハーンの息子ドースト・アリー・ハーンを帝国の正式認可なく後継者とした。

1732年、サアーダトゥッラー・ハーンが死亡したことにより、ドースト・アリー・ハーンが太守位を継承した。

カルナータカ太守は南インドに広大な領土を領有したため、マイソール王国タンジャーヴール・マラーター王国マドゥライ・ナーヤカ朝をはじめとする諸勢力と争った。

ドースト・アリー・ハーンの治世、イギリスフランスオランダ勢力が南インド各地に拠点を築いて貿易活動を展開していたが、彼はそれを認めるなど、非常に寛容な態度をとった。

1736年、ドースト・アリー・ハーンの娘婿であるチャンダー・サーヒブはマドゥライ・ナーヤカ朝を滅ぼし、版図の拡大に成功した[1]。さらには、チャンダー・サーヒブはこの勝利に乗じて、タンジャーヴール・マラーター王国の領土にさえ攻め入った。

だが、これにより、タンジャーヴール・マラーター王国は首都タンジャーヴールを危うくされ、1740年4月ナーグプルラグージー・ボーンスレーの遠征軍が攻め入った[2][3]

同年5月20日、カルナータカ太守は応戦したが敗北し(ダーマルチェルヴの戦い)、ドースト・アリー・ハーンは殺害され、アルコットは落とされて占領された[1][4]

脚注

  1. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.38
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.197
  3. ^ Nagpur District Gazetteer
  4. ^ Advanced Study in the History of Modern India 1707-1813 - Jaswant Lal Mehta - Google Books

参考文献

  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。 

関連項目



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