トマス・パーシー (初代ウスター伯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/09 06:28 UTC 版)
| トマス・パーシー Thomas Percy |
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| 初代ウスター伯 | |
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| 在位 | 1397年 - 1403年 |
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| 出生 | 1343年 |
| 死去 | 1403年7月23日 |
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| 家名 | パーシー家 |
| 父親 | 第3代パーシー・オブ・アニック男爵ヘンリー・ド・パーシー |
| 母親 | メアリ・オブ・ランカスター |
初代ウスター伯トマス・パーシー(Thomas Percy, 1st Earl of Worcester, 1343年 - 1403年7月23日)は、イングランド貴族、海軍司令官。甥の「ハリー・ホットスパー」として知られるヘンリー・パーシーと兄の初代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーとともに反乱を率いたことで最もよく知られている。
生涯
トマスは第3代パーシー男爵ヘンリー・ド・パーシーと、第3代ランカスター伯ヘンリー(イングランド王ヘンリー3世の孫)の娘メアリーの次男で、初代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーの弟であった。トマスは結婚せず、子供もいなかった[2]。
トマスは百年戦争でフランスと戦い、その後、イングランド統治下のフランスにおいて大使、総督などとして様々な重要な職を歴任した。1384年1月26日から1385年2月22日まで、北部提督に任命された。1390年代にはレスル城を建設した。1397年にはリチャード2世によってウスター伯に叙せられた[3]。1399年にはアイルランド艦隊提督に任命された[4]。
トマスは兄ノーサンバーランド伯および甥ホットスパーと共に、ヘンリー4世によるリチャード2世の廃位に加担した。反乱への参加を宣言した際、リチャード2世の執事としての地位を象徴する杖を折ったと伝えられている。後に、パーシー家によるヘンリー4世に対する反乱にも加担した。シュルーズベリーの戦いの前にヘンリー4世と交渉し、ヘンリー4世の和平提案を偽って甥のヘンリー「ホットスパー」に提案を却下させ、戦いに挑ませたと伝えられている。
トマスはシュルーズベリーの戦いで捕らえられ、2日後の1403年7月23日にシュルーズベリーで公開斬首され、シュルーズベリー修道院に埋葬された[2]。また、その首はロンドン橋で晒された。
脚注
- ^ Emery 1996, p. 417
- ^ a b Cokayne 1959, p. 842.
- ^ Cokayne 1959, p. 840.
- ^ Cokayne 1959, p. 841.
参考文献
- Lee, Sidney, ed. (1895). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 44. London: Smith, Elder & Co.
- Emery, Anthony (1996), Greater Medieval Houses of England and Wales: Volume I Northern England, Cambridge University Press, ISBN 9780521497237
- Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 820.
- Cokayne, George Edward (1959). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom. 12.2 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 838-842
| イングランドの爵位 | ||
|---|---|---|
| 爵位創設 | ウスター伯 1397年 - 1403年 |
消滅 |
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