ティボー1世 (ロレーヌ公)とは? わかりやすく解説

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ティボー1世 (ロレーヌ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/26 10:12 UTC 版)

ティボー1世
Thiébaud Ier
ロレーヌ公
在位 1213年 - 1220年

出生 1191年ごろ
死去 1220年2月17日
配偶者 ジェルトリュード・ド・ダグスブール
家名 シャトノワ家
父親 ロレーヌ公フェリー2世
母親 アニェス・ド・バル
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ティボー1世フランス語:Thiébaud Ier, 1191年ごろ - 1220年2月17日)は、ロレーヌ公(在位:1213年 - 1220年)。ロレーヌ公フェリー2世とアニェス・ド・バルの息子。

生涯

ブーヴィーヌの戦い

ティボー1世は1214年7月4日のブーヴィーヌの戦い神聖ローマ皇帝オットー4世とともに戦い、敗走中に捕虜となった。ティボーはすぐに解放された。

家臣

ティボー1世は有力な領主であり、公領は神聖ローマ帝国の一部ではあったが、ほぼ独立した国として統治していた。ティボーには有力な家臣がいたが、その多くは独立に向けて努力し、それを実現させていった。これらの家臣には、メス司教、トゥール司教、ヴェルダン司教、バル伯(ただし、これらの領地はこの時点ではすでに事実上ロレーヌの一部ではなかった)、コメルシー領主、ヴォーデモン伯およびシニー伯(モンメディ領主でもある)などが含まれていた[1]。しかし、これらの領主に対するロレーヌ公の宗主権はおそらく名目だけのものであった。

シャンパーニュ継承戦争

彼は修道院長ジェルバーズから第5回十字軍の指導者の一人になるよう勧められたが、すでにシャンパーニュ継承戦争に巻き込まれており、辞退せざるを得なかったとみられる[2]

1216年のシャンパーニュ継承戦争においては、フランス王フィリップ2世神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世バル伯アンリ2世の支援を受けたシャンパーニュ伯ティボー4世との争いでブリエンヌ伯エラール1世を支持した。ロレーヌの宗主であるフリードリヒ2世は、自身が対立するエラール1世を支持することを重罪とみなし、ロレーヌ公フェリー2世に与えていたロスハイムを占領した。ティボー1世は1218年に反撃し、ロスハイムを奪回してアルザスを略奪した。これに対しフリードリヒ2世はロレーヌに侵攻し、首都ナンシーを占領して焼き払った。それからフリードリヒ2世はティボー1世が避難していたアマンスの城を包囲して占領した。ティボー1世は投獄され、解放されるためにシャンパーニュ伯の宗主権、エラール・ド・ブリエンヌのシャンパーニュに対する主張の正当性を認め、いくつかの領主の地位を放棄するよう強要された。ティボー1世は失った領地と名声を取り戻すことはなく、1220年に死去した。

近親殺し

1217年4月3日から10日の間に(シャンパーニュ継承戦争中)、ティボー1世は対立していた父方の叔父であるトゥール司教マチュー・ド・ロレーヌを捜索し、サン=ミッシェル=シュル=マールトのヴォワ・ド・パリュプトの小道で発見し、槍(殺人ではなく戦いを暗示している)で殺害した[3]。粗暴な司教を殺害するために使用した武器は、シャンパーニュ継承戦争中の同盟者であり、おそらく友人でもあったシモン・ド・ジョアンヴィルから借りたものと思われる。

領地と聖ヨハネ騎士団との関わり

ティボー1世と妃ジェルトリュード・ド・ダグスブール

ロレーヌ公の居城はナンシーにあった。1212年、妃ジェルトリュードを通じてダグスブール伯領とその首都ダボ城、そしてドルリスハイムを相続した[4]。過去のロレーヌ公と聖ヨハネ騎士団との関わりを考慮すると、救護所はティボー1世によって設立された可能性が高いとみられる[4]。また、皇帝から与えられたロスハイムも領有していたが、シャンパーニュ継承戦争に介入した際にロスハイムを奪われた。

ティボー1世はまた、アマンス城[5]、リュネヴィル城、ロレーヌ公爵城などを所有した。

性格

ティボー1世は非常に顔立ちが美しく才能があると記されており[6]、ティボー1世の軍歴より勇敢であったとも考えられる。それにもかかわらず、シャンパーニュ継承戦争において反対側に加わり、これを撤回することを拒否したことから、頑固であったか忠実であったかのどちらかであったとみられる。皇帝と対立することでティボー1世は大きな犠牲を払ったが、皇帝に対する激しい反応は、ティボー1世が物事をスムーズに進めるにはあまりにも気位が高かったことを示している。叔父のトゥール司教マチューの殺害は、特にそのような行為が特にひどいと考えられていた中世において、ティボー1世の性格をよく反映しているとはいえない。

結婚と継承

ティボー1世は1206年に、ダグスブール伯とメス伯アルベール2世の一人娘で女子相続人であったジェルトリュードと結婚した。2人の間には子供がおらず、夫が亡くなったとき彼女はまだ16歳であった[6]。弟マチュー2世がロレーヌ公位を継承した。未亡人となったジェルトリュードはティボー1世の宿敵シャンパーニュ伯ティボー4世と再婚した。

脚注

  1. ^ Poupardin 1911, p. 12.
  2. ^ Wolff 2017, p. 385.
  3. ^ Poull 1991.
  4. ^ a b Edbury 2013.
  5. ^ Perry 2018.
  6. ^ a b Thrupp 1870, p. 14.

参考文献

先代
フェリー2世
ロレーヌ公
1213年 - 1220年
次代
マチュー2世



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