ジョン・ド・ヴィアー (第16代オックスフォード伯)
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| ジョン・ド・ヴィアー John de Vere |
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| 第16代オックスフォード伯 | |
| 在位 | 1540年 - 1562年 |
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| 出生 | 1516年 |
| 死去 | 1562年8月3日 |
| 埋葬 | 1562年8月31日 |
| 配偶者 | ドロシー・ネヴィル |
| マージェリー・ゴールディング | |
| 子女 | キャサリン フェイス エドワード メアリー |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | 第15代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー |
| 母親 | エリザベス・トラッセル |
第16代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー(John de Vere, 16th Earl of Oxford, 1516年 - 1562年8月3日)は、第15代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーとエドワード・トラッセルの娘エリザベス・トラッセルの息子。父の爵位を継承する前の1526年から1540年まで、ボールベック卿の称号を名乗った。
生涯
ジョンはテューダー朝の宮廷においては決して重要な人物ではなかったものの[1]、メアリー1世への支持が1553年の女王の即位に大きく貢献した[2]。ただし、女王の恩顧は受けられなかった[3]。メアリー1世の治世の間、ジョンはエセックスにおいて有力者として活躍した[4]。メアリーの治世中、カトリックに対する異端の疑いをかけられたエセックスの男女はオックスフォードに連行され、告発された後、ロンドン司教に引き渡されて尋問を受けた。囚人のうち少なくとも16人が有罪判決を受け、火刑に処された。その最初の例が、召使であったトマス・ホークスで[5]、1555年6月10日にコッゲスホールで火刑に処された[6]。その後、ニコラス・チェンバレン、ウィリアム・バンフォード、トマス・オーモンドが続いた[7][8]。1556年4月28日には、ジョンにより告発された6人がコルチェスターで火刑に処された[9]。その後、ジョン・ラウスが6月27日に処刑された[10]。同年、ジョンによって年季奉公させられていた5人の囚人、ウィリアム・ボンジョール、ヘレン・ユーリング、ウィリアム・マントとその妻アリス・マントおよび娘ローズ・アレンは釈放されたが[11]、カトリックの慣習を頑なに拒否し続け、1557年8月2日にコルチェスターで再逮捕され、有罪判決を受け、火刑に処された[12]。
ジョンは1562年8月3日にオックスフォードで死去し、同年8月31日にエセックスのヘディンガム城に埋葬された。
家族
ジョンは1536年7月3日、ロンドン、ショーディッチのホリウェル修道院において、第4代ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルの娘ドロシー・ネヴィルと結婚した[13]。次にホワイト・コルン教会でアールズ・コルンのジョーン・ジョッキーと重婚した[14]。そして1548年8月1日、ベルチャンプ・セント・ポールでマージェリー・ゴールディングと重婚した[13] 。
ドロシーは1546年1月頃、「伯爵の不親切な扱い」を理由に逃亡した。同年5月、ジョンはホワイト・コルン教会で、愛人の一人であるアールズ・コルンのジョーン・ジョッキーと重婚した。ジョンが留守の間に、5人の男(騎士と領主を含む)が家に押し入り、ジョッキーの鼻をきれいに切り落としたか「鼻の穴の根元の皮膚を切り裂いて、グロテスクな外観にした」。これは「反社会的行動」に対する伝統的な罰だった。ジョーン・ジョッキーは襲撃を生き延びたものの、ジョンは彼女を「完全に追い払った」。1585年、ジョンとマージェリー・ゴールディングの結婚の正当性を証明する際、ジョンの側近たちは「これらの女性はすべて、伯爵によって追い払われ、…ドロシー夫人は1548年1月6日頃、ソールズベリーから半マイルほど離れた牧師館で亡くなった」と報告した[15]。
ジョンは2度の結婚で4人の子供をもうけた。最初の妻ドロシー(1548年1月6日頃没[14])との間には2女が生まれた。
- キャサリン - 第3代ウィンザー男爵エドワード・ウィンザーと結婚
- フェイス - 幼児期に死去[16]
マージェリー・ゴールディング(1568年12月2日没)との間には1男1女が生まれた。
- エドワード(1550年 - 1604年) - 第17代オックスフォード伯
- メアリー(1554年頃 - 1624年) - 第13代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ペレグリン・バーティー(1601年没)と結婚、サー・ユースタス・ハートと再婚。
文化における追求
ジョンはスポーツマンとして知られ、また当時の多くの貴族と同様に、俳優の一座を擁していた。オックスフォード一座として知られるこの一座は、1547年からジョンが亡くなる1562年まで存続した[17][18]。また、学者で外交官のサー・トマス・スミス、義弟で詩人のサリー伯ヘンリー・ハワード、初代シェフィールド男爵エドマンド・シェフィールド、そして2番目の妻マージェリーの異母弟で翻訳家のアーサー・ゴールディングなどと交友関係があった[19]。
脚注
- ^ Nelson 2003, p. 33.
- ^ MacCulloch 1984, pp. 263–4, 266.
- ^ Loades 1989, pp. 181–184.
- ^ Nelson 2003, p. 23.
- ^ Foxe 1570a, 1797.
- ^ Foxe 1570a, 1806.
- ^ Foxe 1570a, 1816–1817.
- ^ Foxe 1570a, 1818.
- ^ Foxe 1570a, 2128.
- ^ Foxe 1570a, 2135–2136.
- ^ Foxe 1570b, 2197.
- ^ Foxe 1570b, 2238–2242.
- ^ a b Essex Record Office T/R 168/2
- ^ a b Nelson 2003, p. 15.
- ^ Nelson 2003, pp. 14–15.
- ^ Nelson 2003, p. 14.
- ^ Chambers 1923, p. 99.
- ^ Nelson 2003, pp. 13 & 239.
- ^ Ward 1928, p. 10.
参考文献
- Nelson, Alan H. (2003). Monstrous adversary : the life of Edward de Vere, 17th Earl of Oxford. Liverpool: Liverpool University Press. ISBN 978-1-78138-772-6. OCLC 276174269
- MacCulloch (1984). The Vita Mariae Angliae Reginae of Robert Wingfield of Brantham. Royal Historical Society
- Loades, David (1989). Mary Tudor: A Life. Basil Blackwell
- Foxe, John (1570a年). “The Unabridged Acts and Monuments Online or TAMO, Book 11”. HRI Online Publications, Sheffield, 2011. 2025年11月1日閲覧。
- Foxe, John (1570b年). “The Unabridged Acts and Monuments Online or TAMO, Book 12”. HRI Online Publications, Sheffield, 2011. 2025年11月1日閲覧。
- Chambers, E. K. (1923). The Elizabethan Stage. II. Oxford. p. 99
- Ward, Bernard M. (1928). John Murray. p. 10. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.176090/page/n27/mode/1up
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