ジョン・ティプトフト (初代ウスター伯)
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| ジョン・ティプトフト John Tiptoft |
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| 初代ウスター伯 | |
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ジョン・ティプトフトの像(イーリー大聖堂)
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| 在位 | 1449年7月16日 - 1470年10月18日 |
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| 称号 | 第2代ティプトフト男爵 |
| 出生 | 1427年5月8日 |
| 死去 | 1470年10月18日(43歳没) |
| 埋葬 | |
| 配偶者 | セシリー・ネヴィル |
| エリザベス・グレインダール | |
| エリザベス・ホプトン | |
| 子女 | ジョン エドワード |
| 家名 | ティプトフト家 |
| 父親 | 初代ティプトフト男爵ジョン・ティプトフト |
| 母親 | ジョイス・チャールトン |
初代ウスター伯ジョン・ティプトフト(John Tiptoft, 1st Earl of Worcester, 1427年5月8日 - 1470年10月18日)は、イングランド貴族、学者であり、大蔵卿、イングランド最高監察官、アイルランド総督を歴任した。反チューダー派からは「イングランドの屠殺者」と呼ばれた[1]。
生涯
生い立ちと教育
ジョン・ティプトフトは、初代ティプトフト男爵ジョン・ティプトフトと、第5代チャールトン男爵エドワード・チャールトンの共同相続人ジョイス・チャールトンの息子として1427年にグレート・エヴァースデンで生まれた。優れた教育を受け、13歳から16歳までオックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジで学んだ。
父方を通してカール大帝の子孫、母方を通して大サウェリンとイングランド王ヘンリー3世の子孫であった。
結婚と子女
ジョンは三度結婚した。最初に、1449年に第5代ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルの娘セシリー・ネヴィルと結婚した。セシリーは1450年7月28日に死去した。二人の間に子供はいなかった。
2度目に、ロバート・グレインダール(1443年)の娘で女子相続人のエリザベス・グレインダール(1452年没)と結婚した[2]。2人の間には1男が生まれた。
- ジョン(1452年) - 生まれた年に早世
3度目に、サー・トマス・ホプトンとエレノアー・ルーシーの娘エリザベス・ホプトン(1445年頃 - 1498年6月22日)と結婚した。エリザベスはサー・ウォルター・ホプトンの孫娘であり、モートン・コーベットのサー・ロジャー・コーベット(1467年6月8日没)の未亡人であった。二人は1467年9月頃ラドローで結婚し、1468年5月9日付で無許可結婚の恩赦を受けた。2人の間には1男が生まれた。
- エドワード(1469年7月14日 - 1485年8月12日) - 第2代ウスター伯。未婚のまま亡くなった。
未亡人となったエリザベスは、1471年12月7日以前にサー・ウィリアム・スタンリー(初代ダービー伯トマス・スタンリーの弟)と再婚した。
経歴
1449年7月16日にウスター伯に叙せられた後、数々の公職を歴任し、まず大蔵卿(1452年 - 1454年)、次いでアイルランド総督(1456年 - 1457年)を務めた。その後、1458年に聖地巡礼に出発し、イタリア経由で帰国。イタリアに2年間滞在し、パドヴァ大学で学んだ[3]。そこでウスター伯はラテン語学者として高い評価を得た。
1461年にイングランドに戻り、エドワード4世の寵愛を受け、ガーター騎士に叙されたほか、1461年にはロンドン塔の終身警護官、1463年には王室執事など、数々の役職に任命された。最も著名なのは、1462年に大監として、ランカスター派の私権剥奪と処刑につながる裁判を主宰したことである。ジョンはこの職務を残虐行為をもって遂行し、斬首、四つ裂き、串刺しにした。
1464年、ジョンはアイルランド終身大法官に任命され、1467年には再びアイルランド総督となり、第7代デスモンド伯トマス・フィッツジェラルドを処刑した。ジョンは1462年から1463年、そして1470年7月から10月まで再び大蔵卿を務めた。ジョンが大蔵卿を務めていた時期は、イングランドで金不足と大恐慌が起こった時期であった。
死
1470年、ヘンリー6世の再登位が行われた際、ジョンはエドワード4世とその支持者たちと共に逃亡することができなかった。ランカスター派に捕らえられ、ロンドン塔で斬首刑に処され、爵位を剥奪された。ジョンの最後の行為は、三位一体の神のために、三度の打撃で首を刎ねるよう懇願することであった[4]。
ウスター伯位は、1471年4月14日に未成年の息子エドワードが継承した[5]。息子エドワードは1485年に未成年のまま、子女を残さずに亡くなった。こうして爵位はエドワードの死とともに消滅[6]、あるいは共同相続人として叔母たちの間で停止状態となった。
脚注
- ^ Mitchell 1965, p. 121.
- ^ “Greyndour [née Rigge; other married name Barre], Joan (c. 1400–1485), school founder”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. 2004. doi:10.1093/ref:odnb/107508. ISBN 9780198614111. 2021年3月24日閲覧. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ Woolfson 1998, p. 4.
- ^ Kendall 1956, p. 516.
- ^ Cokayne 1959, p. 846.
- ^ Jones 1868, p. 357.
参考文献
- Kingsford, Charles Lethbridge (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 820–821.
- Kohl, Benjamin. “Tiptoft, John, 1st earl of Worcester”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/27471. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Mitchell, R. J. (1938). John Tiptoft (1427–1470). Longmans
- Mitchell, R. J. (1965). The Spring Voyage: The Jerusalem Pilgrimage in 1458. Readers Union
- Spring, Peter (2018). Sir John Tiptoft, 'Butcher of England': Earl of Worcester, Edward IV's Enforcer and Humanist Scholar. Pen and Sword
- Woolfson, Jonathan (1998). Padua and the Tudors: English Students in Italy, 1485-1603. James Clarke & Co
- Kendall, Paul (1956). Richard the Third. New York: The Norton Library. p. 516. ISBN 0-393-00785-5
- Jones, M. C. (1868). “Feudal lords of Powys”. Montgomeryshire Collections. I
- Cokayne, George Edward (1959). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom. 12.2 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 829-863
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 パウィックのビーチャム男爵 |
大蔵卿 1452年 - 1455年 |
次代 オーモンド伯 |
| 先代 エセックス伯 |
大蔵卿 1461年 - 1463年 |
次代 ルシンのグレイ男爵 |
| 先代 ハンフリー・スタッフォード |
大司馬 1461年 - 1467年 |
次代 リチャード・ウッドヴィル |
| 先代 ウィリアム・グレイ |
大蔵卿 1470年 |
次代 ジョン・ラングストロザー |
| イングランドの爵位 | ||
| 爵位創設 | ウスター伯 1449年 - 1470年 |
次代 エドワード・ティプトフト |
| 先代 ジョン・ティプトフト |
ティプトフト男爵 1443年 - 1470年 |
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