ジョン・ド・ヴィアー (第12代オックスフォード伯)
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| ジョン・ド・ヴィアー John de Vere |
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| 第12代オックスフォード伯 | |
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| 在位 | 1417/29年 - 1462年 |
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| 出生 | 1408年4月23日 |
| 死去 | 1462年2月26日(53歳没) |
| 埋葬 | |
| 配偶者 | エリザベス・ハワード |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | 第11代オックスフォード伯リチャード・ド・ヴィアー |
| 母親 | アリス・セルジョー |
第12代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー(John de Vere, 12th Earl of Oxford, 1408年4月23日 - 1462年2月26日)は、第11代オックスフォード伯リチャード・ド・ヴィアー(1385年? - 1417年2月15日)とその2番目の妻アリス・セルジョー(1386年 - 1452年)の息子[1]。晩年はランカスター派であったが、大逆罪で有罪となり、1462年2月26日にタワー・ヒルで処刑された。
生涯
ジョンは、第11代オックスフォード伯リチャード・ド・ヴィアとその2番目の妻アリス(ガイ・セント・オービンの未亡人で、コーンウォールのコルキート出身のサー・リチャード・セルジョーとその2番目の妻フィリッパ(1399年9月13日没)の娘[2])の長男として1408年4月23日にヘディンガム城で生まれた[3]。フィリッパはサー・エドマンド・アランデルの娘であり、共同相続人であった。第11代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーとその妻アリスは、その次男ロバートを通して第15代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーの曽祖父にあたる[4][5][6]。
ジョンは、1417年2月15日の父の死後、未成年ながら爵位を継承した。その身柄と領地の管理は、まずエクセター公トマス・ボーフォートに(1426年の死まで)、その後はベッドフォード公に委ねられた。1425年、ジョンは未成年であったが、相続人エリザベス・ハワード(1410年頃 - 1473/4年)と結婚した。エリザベスは第7代プレイズ卿ジョン・ハワード(1385/6年頃 - 1409年)の娘であり、ジョン・ハワードは、初代ノーフォーク公ジョン・ハワードの父サー・ロバート・ハワードの兄弟であった。祖父であるウィッゲンホールのジョン・ハワード(1366年頃 - 1436年11月17日)の死後、エリザベスはノーフォーク、サフォーク、エセックス、ケンブリッジシャーの領地を相続した[6][7][8]。ジョンは結婚はエクセター公の助言に基づいて行われたと主張したものの、国王の許可を得ていなかったため、2000ポンドの罰金を科せられた。カストルによれば、オックスフォード伯はこの巨額の罰金の支払いに苦労したという。1437年にジョンは自身の領地の価値は年間わずか500ポンドであると述べており、「オックスフォード伯位は伯位の中でも最も貧しいものの一つ」であった[6][7][8]。
ジョンは1426年5月26日、レスターにおいて弟ロバートと当時4歳のヘンリー6世を含む34名と共に騎士とされた。1429年7月4日には正式に領地を与えられた。1431年には枢密院議員に任命された。1430年代から1440年代にかけて、ジョンはイースト・アングリアの地方政治に関わり、エセックスの様々な委員会に任命され、サフォークとケンブリッジシャーでは治安判事を務めた。1435年2月には聖地への渡航許可を得たが、実際に渡航したという証拠はない[6][9]。
1436年7月、ジョンはブルゴーニュ公フィリップ3世によるカレー包囲戦からの解放を目指し、ケントのサンドウィッチで家臣たちを集めた。1437年7月23日、カンタベリーで行われた王妃ジョーンの葬儀に参列するよう召集された。1439年6月、枢機卿ヘンリー・ボーフォートをはじめとする使節団と共に、オックスフォードはフランスとの和平交渉の使節に任命された。1441年5月16日、ジョンはフランス及びノルマンディーの総督兼陸軍中将に任命されていた第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットと共にポーツマスからフランスへ出航した。1450年6月、ジョンはジャック・ケイド率いるケント人の反乱軍に対抗するために任命された貴族の一人であった[6][9]。
1440年代後半、ジョンはイースト・アングリアにおける政治的影響力をノーフォークにまで拡大した。ジョンは同地の治安判事に定期的に任命され、1450年、初代サフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールの失脚後、ジョンは第3代ノーフォーク公ジョン・モウブレー、そしてサー・ジョン・ファストルフと共に、同地におけるサフォーク支持派の影響力に異議を唱えた。しかし、1451年の春までに、サフォーク公の仲間たちはトーマス・スケールズ、そして未亡人となったサフォーク公爵夫人の指導の下で再編成され、1452年までにはサー・トマス・タッデナムやジョン・ヘイドンなどのサフォーク公の仲間の主要メンバーが再び役職に任命された[6]。
1450年代、国政が分裂を深めるにつれ、ジョンはすぐにはどちらの側にも立たなかった。しかし、1453年から1454年にかけてヘンリー6世が精神衰弱に陥っていた時期にヨーク公が護国卿を務めていた間、ジョンは評議会のメンバーであった[6]。そして1454年5月28日、ジョンは他の6人の貴族と弟のサー・ロバート・ヴィアーと共に、3年間の海上警備を引き受けた[6][9]。1455年5月、ジョンとノーフォーク公はセント・オールバンズの戦いに参加するには1日遅れで到着した。ジョンがヨーク公に対抗してマーガレット・オブ・アンジューを支持するようになったのは1459年になってからであった。同年12月と1460年4月、ジョンはエセックスで反ヨーク派の陣営を指揮するよう任命され、1460年5月には、初代バッキンガム公ハンフリー・スタッフォードの娘アンと結婚したばかりの長男、サー・オーブリー・ヴェアが「女王陛下に大変気に入られている」と伝えられていた[6][10]。
1460年7月のノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利した後、ジョンは健康を害したようである。同年11月、「病弱を考慮」して、ジョンは国王の御前または枢密院、議会への出席を免除された[6][9]。エドワード4世率いるヨーク派の新たな政権下で目立たないようにするために仮病を使っていたのであれば、その策略は失敗に終わった。1462年2月、ジョンは息子のオーブリー、ノーフォークにおけるかつての敵対者で、今やランカスター派の盟友となったサー・トマス・タッデナム、サー・ジョン・モンゴメリー、サー・ウィリアム・ティレル、ジョン・クロプトンと共に逮捕され、イングランドの治安判事であった初代ウスター伯ジョン・ティプトフトの前で大逆罪で有罪判決を受けた[11]。1462年2月26日、ジョンはタワー・ヒルで斬首された。その後、ロンドンのオースティン・フライアーズ教会に埋葬された[12]。長男オーブリーは6日前にそこで処刑されており、ジョンの後継者は次男の第13代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーとなった[6]。
結婚と子女
ジョンは1425年5月22日から8月31日の間に、第7代プレイズ男爵ジョン・ハワード(1385/6年頃 - 1409年頃)の一人娘で女子相続人であった第8代プレイズ女男爵エリザベス・ハワード(1410年頃 - 1475年)と結婚した[13]。エリザベスの母ジョーン・ウォルトンはエセックスのウィヴンホーのジョン・ウォルトンとマージェリー・サットンの娘であった[14]。夫妻の間には5男3女が生まれた[5][15]。
- オーブリー[16](1462年2月20日没) - 初代バッキンガム公ハンフリー・スタッフォードの娘アンと結婚
- ジョン(1442年 - 1513年)[16] - 第13代オックスフォード伯
- ジョージ - ヘレフォードシャーのビショップス・フロムのサー・ウィリアム・スタッフォードの娘で相続人のマーガレット・スタッフォードと結婚した。マーガレットとの間には、2男4女が生まれた[17]。
- ジョージ
- ジョン(1499年 - 1526年) - 第14代オックスフォード伯
- エリザベス - サフォークのレザリンガムのサー・アンソニー・ウィングフィールドと結婚
- マーガレット
- ドロシー - 第3代ラティマー男爵ジョン・ネヴィルと結婚
- アーシュラ - 初代ウィンザー男爵アンドリュー・ウィンザーの長男で相続人のジョージ・ウィンザー(1520年没)と結婚、次にサー・エドマンド・ナイトリーと結婚。
- リチャード - サー・ヘンリー・パーシーの娘で、第3代コドナーのグレイ男爵ヘンリー・グレイの未亡人であったマーガレット・パーシーと結婚[16]
- トマス[16]
- メアリー - バーキング修道院の修道女[15][16]
- ジョーン(ジェーン) - サー・ウィリアム・ノリスと結婚[16][18]
- エリザベス - ウィリアム・バウチャーと結婚[16][19]
脚注
- ^ Ross 2011, p. 18
- ^ Richardson I 2011, p. 13.
- ^ Ross 2011, p. 22
- ^ Richardson 2004, pp. 370, 738.
- ^ a b Cokayne 1945, p. 238.
- ^ a b c d e f g h i j k Castor 2004.
- ^ a b Cokayne 1945, pp. 236, 238.
- ^ a b Richardson 2004, pp. 234, 738.
- ^ a b c d Cokayne 1945, p. 237.
- ^ Richardson 2004, p. 674.
- ^ Mitchell 1938, p. 85.
- ^ Ross 2011, p. 39 + n.119
- ^ Sharpe 1830.
- ^ Armstrong 2019, p. 159.
- ^ a b Ross 2011, p. 23.
- ^ a b c d e f g Richardson IV 2011, p. 273.
- ^ Richardson IV 2011, pp. 273, 276.
- ^ Ross 2011, pp. 23, 45, 80.
- ^ Ross 2011, pp. 23, 80.
参考文献
- “Confirmed Executions at the Tower of London”. Capital Punishment UK homepage. 2025年11月8日閲覧。
- Castor, Helen (2004). “Vere, John de, twelfth earl of Oxford,(1408–1462), magnate”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/28213. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Cokayne, George Edward (1945). The Complete Peerage, edited by H.A. Doubleday. X. London: St. Catherine Press. pp. 233–239
- Gunn, S.J. (2008). “Vere, John de, thirteenth earl of Oxford, 1442–1513, magnate”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/28214. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Kohl, Benjamin G. (2006). “Tiptoft (Tibetot), John, first earl of Worcester (1427–1470), administrator and humanist”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/27471. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Richardson, Douglas (2011). Everingham, Kimball G.. ed. Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families. I (2nd ed.). Salt Lake City. p. 13. ISBN 978-1461045205
- Richardson, Douglas (2011). Everingham, Kimball G.. ed. Magna Carta Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families. IV (2nd ed.). Salt Lake City. p. 273. ISBN 978-1460992708
- Richardson, Douglas (2004). Everingham, Kimball G.. ed. Plantagenet Ancestry: A Study in Colonial and Medieval Families. Baltimore, Maryland: Genealogical Publishing Company Inc
- Ross, James (2011). John de Vere, Thirteenth Earl of Oxford (1442–1513); "The Foremost Man of the Kingdom". Woodbridge, Suffolk: The Boydell Press
- Weir, Alison (1996). The Wars of the Roses. Ballantine Books. ISBN 9780345404336. "Oxford's sufferings were intense: he was disembowelled, then castrated, and finally, still conscious, burned alive."
- Mitchell, R.J. (1938). John Tiptoft (1427–1470). London. p. 85
- Sharpe, John (1830) (英語). Sharpe's Peerage of the British Empire exhibiting its present state and deducing the existing descents from the ancient nobility of England, Scotland and Ireland
- Armstrong, Mostyn John (2019). The History and Antiquities of the County of Norfolk. Volume 6. Forgotten Books
この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む:
James, Tait (1899). “Vere, John de (1443-1513)”. In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 58. London: Smith, Elder & Co. pp. 240–242.
この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む:
James, Tait (1899). “Vere, Aubrey de (1340?-1400)”. In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 58. London: Smith, Elder & Co. p. 221.
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