ジャン・ラフ・オハーンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジャン・ラフ・オハーンの意味・解説 

ジャン・ラフ・オハーン

(ジャンヌ・オヘルネ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 04:52 UTC 版)

ジャン・ラフ・オハーンJan Ruff O'Herne[注釈 1]1923年1月18日 - 2019年8月19日)は、第二次世界大戦中の1944年に起きたスマラン慰安所事件で、日本軍により強姦され、売春を強要されたオランダ人女性の被害者の1人。戦後、英国人男性と結婚し、1960年にオーストラリアに移住。1992年に被害体験の手記を公表し、同年12月に東京で日弁連や市民団体等が開催した公聴会に出席し証言するなど、反・戦時性暴力のための証言・記録活動を行っている[注釈 2]。ヤン・ルフ・オヘルネ、ジャンヌ・オヘルネとも[注釈 1]


注釈

  1. ^ a b 名前の読み方について、渡辺 (1999, pp. 185–186)は、東京での公聴会の際に「ジャンヌ・オヘルネ」と呼ばれていたため名前の読み方に混乱が生じ、「ジーン・ラフオハーン」「ヤン」と呼ばれることもあったが、家族背景を考慮し、本人に問い合わせた結果、「ジャン・ラフ=オハーン」に落着くことになった、としている。
  2. ^ この記事の主な出典は、オハーン (1999)倉沢 (1999)ヒックス (1995, pp. 56–61)および吉見 (1995, pp. 178–181)。
  3. ^ 吉見 (1995, pp. 178–179)では、砂糖農園を営む裕福な家庭に生まれた、としている。
  4. ^ 吉見 (1995, pp. 178–179)では、両親はオランダ人、としている。
  5. ^ 父や兄は早くに軍隊に入り、家を離れていた[5]
  6. ^ ジャワ島に残っていたオランダ人は、人数が約19万人と多かったこともあって当初抑留されず、同年4月に外国人居住登録を受けた[6][7][8]
  7. ^ 日本軍は1942年9月に布告「オランダ本国人等家族居住地指定に関する件」を発してオランダ人にジャワ島内の6ヵ所の指定居住区に移住するよう指示しており、オハーンの手記の内容から、この頃から同年のクリスマス前までの出来事とみられている[9]
  8. ^ オハーンの父は蘭軍の兵役に就いていたため捕虜収容所に収容された[13]。兄はヨーロッパでドイツ軍の捕虜となっていた[14]。祖父はフランス人であったため、また姉は勤め先だった元の蘭印鉄道(NIS)での仕事を続けるため、このときには収容されず、後に収容された[15][16]
  9. ^ 吉見 (1995, p. 179)では、16人が選別された、としている。
  10. ^ ヒックス (1995, p. 57)・吉見 (1995, p. 179)では、出発の際に母親たちや収容所の女性たちが抗議した、としている。
  11. ^ バタビア裁判の資料では、約35名の女性はスマラン市内のホテルに集められ、まず将校倶楽部用の女性7名が選別され、残る女性たちが他の3つの慰安所に振り分けられた、とされている[22]
  12. ^ オハーン (1999, p. 90)では「七海館」、ヒックス (1995, p. 57)では「七つの海の家」と日本語訳している。ヒックス (1995, p. 57)は、これは「将校クラブ」だった、としており、倉沢 (1999, pp. 210–211)ではスマラン市内にあった4つの慰安所のうちのいずれか、としている。
  13. ^ オハーン (1999, p. 94)。2人は連れて来られたことに不安はない様子で[29]、オハーンたちは、この2人の女性を「志願者」と呼んでいた[30]。後に慰安所で働くことにした理由を尋ねると、彼女達の収容所から16歳の少女が連行されそうになったので可哀想に思い、自分たちが代わりに行ってもよいと申し出たもので、収容所で飢え死にしたくはなかったし、という話だった[29]
  14. ^ オハーン (1999, p. 96)では、その際、同意書に署名するよういわれたが署名しなかった、としているが、倉沢 (1999, pp. 209–210)によると日本軍は女性たちに同意書にサインをさせている。
  15. ^ オハーン (1999, p. 97)。花の名前だった[34]
  16. ^ オハーン (1999, p. 97)。「日本人にしかできない喚き方で、猛然と私に食って掛かった」[34]
  17. ^ 吉見 (1995, p. 179)では、日付を「開館の夜」としている。
  18. ^ オランダ人女性に売春を強要していた慰安所は1944年4月末に閉鎖されており、それより前のこととみられている[53]
  19. ^ オハーン (1999, p. 136)。「でも、日本人は何て変な精神構造をしているのだろう、と思わずにはいられませんでした。ついこの間まで私たちは、天皇と憲兵隊と軍の最高機関の承認の下で、毎日、少なくとも10人の日本人に強姦されていました。それが今、これとまったく同じことをしようとして、この男は自殺させられたのです。」[61]
  20. ^ このとき、姓が「ラフ・オハーン」になった。
  21. ^ ヒックス (1995, p. 61)では、大きな外科治療を受けた後、妊娠能力がなくなった、としている。
  22. ^ 手記原題はO'Herne (1992)吉見 1995, p. 参照文献一覧3)
  23. ^ ビデオプレス (1992)はこの公聴会の様子を記録したもの。
  24. ^ 同月8日には「夜のテレビの時事番組」のインタビューに答え[83]、同月11日には内閣総理大臣室で内閣外政審議室長だった谷野作太郎と会見している[84]

出典

  1. ^ 倉沢 1999, p. 191.
  2. ^ 倉沢 1999, pp. 188, 190–191.
  3. ^ a b 倉沢 1999, p. 194.
  4. ^ 倉沢 1999, pp. 197–198.
  5. ^ a b 倉沢 1999, pp. 200–201.
  6. ^ 倉沢 1999, pp. 201–202.
  7. ^ オハーン 1999, pp. 50–51.
  8. ^ a b 吉見 1995, pp. 178–179.
  9. ^ 倉沢 1999, p. 203.
  10. ^ 倉沢 1999, p. 201.
  11. ^ オハーン 1999, pp. 51–55.
  12. ^ a b c d e f g ヒックス 1995, p. 57.
  13. ^ オハーン 1999, pp. 144–145.
  14. ^ a b オハーン 1999, p. 144.
  15. ^ 倉沢 1999, pp. 202–204.
  16. ^ オハーン 1999, pp. 52, 117–118.
  17. ^ a b 倉沢 1999, pp. 205–206.
  18. ^ オハーン 1999, pp. 55–56.
  19. ^ オハーン 1999, p. 71.
  20. ^ a b オハーン 1999, p. 81.
  21. ^ オハーン 1999, pp. 81, 110.
  22. ^ a b c d e 吉見 1995, p. 179.
  23. ^ オハーン 1999, pp. 82–84.
  24. ^ オハーン 1999, p. 84.
  25. ^ a b オハーン 1999, p. 87.
  26. ^ オハーン 1999, p. 89.
  27. ^ オハーン 1999, p. 90.
  28. ^ オハーン 1999, p. 91.
  29. ^ a b オハーン 1999, p. 94.
  30. ^ オハーン 1999, p. 106.
  31. ^ オハーン 1999, p. 95.
  32. ^ a b c d e f g ヒックス 1995, p. 58.
  33. ^ オハーン 1999, p. 96.
  34. ^ a b オハーン 1999, p. 97.
  35. ^ オハーン 1999, p. 98.
  36. ^ オハーン 1999, pp. 100–101.
  37. ^ 伊藤 1993, pp. 141–142.
  38. ^ 国際公聴会実行委員会 1993, pp. 80–83.
  39. ^ オハーン 1999, p. 105.
  40. ^ a b c d e f g h ヒックス 1995, p. 59.
  41. ^ 吉見 1995, p. 180.
  42. ^ a b c オハーン 1999, p. 108.
  43. ^ オハーン 1999, p. 109.
  44. ^ a b c d e f ヒックス 1995, p. 60.
  45. ^ オハーン 1999, pp. 110–111.
  46. ^ オハーン 1999, p. 112.
  47. ^ a b 吉見 1995, p. 181.
  48. ^ a b オハーン 1999, p. 113.
  49. ^ オハーン 1999, p. 115.
  50. ^ オハーン 1999, p. 116.
  51. ^ a b オハーン 1999, p. 121.
  52. ^ a b オハーン 1999, pp. 123–125.
  53. ^ 倉沢 1999, p. 212.
  54. ^ オハーン 1999, p. 127.
  55. ^ オハーン 1999, p. 128.
  56. ^ a b オハーン 1999, p. 129.
  57. ^ オハーン 1999, pp. 130–131.
  58. ^ オハーン 1999, p. 132.
  59. ^ オハーン 1999, p. 135.
  60. ^ オハーン 1999, pp. 135–136.
  61. ^ a b オハーン 1999, p. 136.
  62. ^ a b c オハーン 1999, p. 137.
  63. ^ オハーン 1999, pp. 137–138.
  64. ^ オハーン 1999, pp. 139–140.
  65. ^ オハーン 1999, pp. 140–141.
  66. ^ a b オハーン 1999, pp. 142–143.
  67. ^ オハーン 1999, p. 151.
  68. ^ a b オハーン 1999, pp. 143–144.
  69. ^ オハーン 1999, pp. 149–151.
  70. ^ ヒックス 1995, p. 61.
  71. ^ オハーン 1999, pp. 151–153.
  72. ^ オハーン 1999, p. 153.
  73. ^ 倉沢 1999, p. 214.
  74. ^ a b オハーン 1999, p. 155.
  75. ^ オハーン 1999, pp. 155–156.
  76. ^ オハーン 1999, p. 156.
  77. ^ オハーン 1999, pp. 156–157.
  78. ^ a b c オハーン 1999, p. 157.
  79. ^ a b ヒックス 1995, p. 56.
  80. ^ オハーン 1999, pp. 158–161.
  81. ^ オハーン 1999, pp. 161–166.
  82. ^ オハーン 1999, pp. 165–175.
  83. ^ オハーン 1999, p. 170.
  84. ^ オハーン 1999, p. 176.
  85. ^ オハーン 1999, p. 172.
  86. ^ 渡辺 1999, pp. 182–183.
  87. ^ Famed 'comfort woman' dies in Adelaide”. The Newcastle Herald. 2019年8月20日閲覧。
  88. ^ オハーン 1999, p. 175.
  89. ^ オハーン 1999, pp. 171–174.


「ジャン・ラフ・オハーン」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャン・ラフ・オハーン」の関連用語

ジャン・ラフ・オハーンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャン・ラフ・オハーンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャン・ラフ・オハーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS