ゴドウィン (ハロルド・ゴドウィンソンの息子)とは? わかりやすく解説

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ゴドウィン (ハロルド・ゴドウィンソンの息子)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/04 04:12 UTC 版)

ゴドウィン英語: Godwin あるいは Godwine[1]1066年から1069年にかけて活動)はイングランド国王ハロルド・ゴドウィンソンの息子(恐らくは長男)。彼はノルマン・コンクエストによって2人の兄弟とともにダブリンに追放され、そこから2回にわたり南西イングランドに遠征したものの、ほとんど成功をおさめなかった。

出自

ゴドウィンの正確な誕生日は分かっていないが、1040年代の半ばから後半にかけてであると推測される[2][3]彼の家族英語版はアングロ・サクソン期のイングランドのなかでも特に有力な一族であった。父方の祖父はウェセックス伯ゴドウィンであり、父はその称号を後に受け継ぐハロルド・ゴドウィンソンであった。彼の母白鳥首のエディス英語版は「デンマーク風英語版」(教会から公認されたわけではないが、当時俗世間では広く合法だと認識されていた方法)にハロルドに嫁いだ。例えばクヌート王エルフギフ・オブ・ノーサンプトンは同様の方法で結婚したが、その息子ハロルド兎足王は王位を受け継いだ[4]。ハロルド・ゴドウィンソンには5人の(恐らく母親の異なる)息子がいたが、いくつかの証拠の組み合わせによってゴドウィンが最年長であったと示唆される。例えば、1066年に彼のみがドゥームズデイ・ブックに土地所有者として記されており、年代記作家ウスターのジョン英語版がハロルドの息子たちを上げる中で彼が最初に記されており、その上彼はハロルドの父に因んで名づけられている[5][1]。ゴドウィンが大貴族の息子として(軍事的および外交的スキル獲得に重点を置いた)有益な教育を受けたと推測できる。彼は今やイングランド国王となった父のためにヘイスティングスの戦いで戦うためには若すぎたものの、その後数年のうちにこれらのスキルを活かす機会に恵まれることとなる[6]

南西イングランドでの抵抗

ヘイスティングスでのハロルド・ゴドウィンソンの敗死は彼の家族にとって(特にロンドンのアングロ・サクソン諸侯がハロルドの息子ではなくエドワード懺悔王の大甥エドガー・アシリングを王に選んだことは)災難であった。エドガーの短い「治世」(彼は実際には戴冠することはなかった)はウィリアム1世が1066年12月ロンドンに入城することで終わりを告げた[7]。ゴドウィン・ハロルドソンの祖母でゴドウィン伯の未亡人ギータ英語版は南西イングランドに逃れ、未征服のままだった地域で権力を安定させようとしたものの、1068年の初めにはウィリアムが軍を率いて彼女をエクセターに追い詰めるまでになった[8]。当時の文献ではゴドウィンはこの南西部での反乱勢力として特に言及はされていないものの、兄弟のエドマンド英語版マグヌス英語版とともに反乱勢に加わり、アングロ・サクソン人の抵抗勢力の主導者になると主張していた可能性は高い[9][10][11][12]。18日後にはエクセターがウィリアムに降伏するが、それまでにギータ(ひょっとするとその孫たちも)はブリストル海峡の島(恐らくスティープ・ホルム島英語版)に亡命していた[3][13][14]

アイルランドからの襲撃

その夏ゴドウィンはダブリンで、彼の父がかつてそうであったようにダーメット王アイルランド語版に庇護されていた。年代記作家ウスターのジョンによれば兄弟エドマンドおよびマグナスとともに、アングロ=ノルマン人英語版の年代記作家ジェフレイ・ガイマールによればエドマンドと彼のいとこハーコン(スヴェン・ゴドウィンソンの息子)と共にいたという。彼らにはハロルド・ゴドウィンソンのハスカールの残党が仕えており、『イニスファレン年代記英語版』で「サクソン王の軍旗」と言及されているような贈与品をダーメット王に送ったり、傭兵を雇うだけの資金を有していた[15][16]。52隻からなる艦隊でブリストル海峡へ出航し、エイヴォン川英語版河口域、さらにブリストルを攻撃し、町民に追い出されてからはサマセット海岸に戻り、再び上陸した[17][18][19]。エドワード懺悔王の死去以降、ゴドウィンの所有地はサマセット・ネトルコム英語版およびラングフォード=イン=バーリントン英語版にある2つの小さな荘園のみであったから、彼らはそこでの歓迎及び兵員の補充を期待したかもしれない。しかし、もしそうだったならば彼らは失望したことだろう[20][21]。彼らはエアドノス英語版率いる地元の勢力と遭遇し、ブリードン英語版で激しい戦いを繰り広げた。エアドノスは恐らく戦死し、ゴドウィンの兄弟マグヌスも同じ運命をたどった可能性がある。デヴォンコーンウォールを襲撃後、ゴドウィンは以前より豊かに、しかし大きな軍事的成功を得ることなくダブリンに帰還した[19]

1069年の夏、ダブリンから新たな侵攻が行われた。しかし文献には今回の侵攻はハロルドの2人の息子によるものとだけ記されており、その具体的な名前は明らかでない[22][23]。今回は64隻の艦隊でエクセターを攻撃したが陥落できず、ランズ・エンドを回る前にデヴォン南海岸とおそらくコーンウォールのリザード半島英語版を略奪し、その後『アングロサクソン年代記』によれば「突然」[訳注 1]デヴォン北海岸・トー川英語版河口に上陸した[19][24][25]バーンスタプル英語版周辺を蹂躙した後、ブライアン・オブ・ブリタニー英語版指揮下の軍団と遭遇した。年代記によれば「船隊に乗り組んでいたおもだった者全部を殺したが、彼ら以外の小部隊の兵たちは、船に逃れた」[訳注 1]という[25][24]。2回の襲撃は政治的及び軍事的な破滅的失敗に終わり、彼らの父同様に南西部での支持を得られることはできなかった[26]

フランドルからデンマーク、そして東方へ

ゴドウィンとエドマンドはおそらく姉妹ギータ、おばガンヒルド、そして祖母ギータを伴いフランドル伯国英語版サントメール1069年の終わりか1070年の初めに移った[27]。彼らは後にデンマーク・スヴェン2世の宮廷に、幼いギータを連れて身を寄せた。彼らは明らかにスヴェン2世がイングランド侵攻を支援してくれると期待していたが、実際に彼が支援することはなかった。スヴェンは彼自身による同じような侵攻で手痛い失敗をしたばかりで、またスヴェンの兄弟のひとりがハロルドの兄弟によって殺されていたこともあってそのような試みへの興味をなくしていた[28]1074年1075年、ギータはスモレンスクおよびノヴゴロド公ウラジーミル・モノマフに嫁いだ[29]。歴史家・系図学者のユゼフ・プジンポーランド語版博士はリトアニアジェマイティヤに伝わる伝承の調査と自身の研究成果を元に、ゴドウィンは東方のルテニアに亡命し、その地でウテナを首都とするナルシア公国(あるいは Nalszczańska, Alsen)を建国し、のちのリトアニア大公家(1572年まで)の祖となったと結論付けている[30]

系図

ハロルド・ゴドウィンソンの息子ゴドウィンの系図
8. ウルフノース・チルド英語版
4. ウェセックス伯ゴドウィン
2. ハロルド・ゴドウィンソン
10. ソルギル・スプラクリング英語版
5. ギータ・トルケルズドッティル英語版
1. ゴドウィン
3. エディス英語版

脚注

訳注

  1. ^ a b 和訳文は大沢一雄著(2012年)「アングロ・サクソン年代記」朝日出版社、p229. より引用。

出典

  1. ^ a b Mason 2004, p. 139.
  2. ^ Walker 2010, pp. 145, 149.
  3. ^ a b Mason 2004, p. 181.
  4. ^ Walker 2010, p. 145.
  5. ^ Walker 2010, p. 149.
  6. ^ Walker 2010, pp. 149–150.
  7. ^ Walker 2010, pp. 207–208.
  8. ^ Mason 2004, pp. 180–181.
  9. ^ Mason 2004, p. 194.
  10. ^ Walker 2010, pp. 212–213.
  11. ^ Barlow 1972, p. 90.
  12. ^ Freeman 1871, p. 142.
  13. ^ Freeman 1871, p. 157.
  14. ^ Coates, Richard (March 2014). “The Severn Sea Islands in the Anglo-Saxon Chronicle”. Notes & Queries 259 (1): 1–3. doi:10.1093/notesj/gjt225. 
  15. ^ Mason 2004, pp. 194–195.
  16. ^ Flanagan, Marie Therese (1997). “Irish and Anglo-Norman Warfare in Twelfth Century Ireland”. In Bartlett, Thomas; Jeffery, Keith. A Military History of Ireland. Cambridge: Cambridge University Press. p. 59. ISBN 0521415993. https://books.google.com/books?id=MPZiWhhAmXAC 2018年9月9日閲覧。 
  17. ^ Barlow, Frank (2003). The Godwins: The Rise and Fall of a Noble Dynasty. Abingdon: Pearson Longman. p. 169. ISBN 9780582784406. https://books.google.com/books?id=rRJ4AAAAQBAJ&dq=%221068+with+52+ships%22&pg=PA168 2018年9月9日閲覧。 
  18. ^ Walker 2010, p. 214.
  19. ^ a b c Mason 2004, p. 195.
  20. ^ Williams, Ann (1981). “Land and Power in the Eleventh Century: The Estates of Harold Godwineson”. In Brown, R. Allen. Proceedings of the Battle Conference on Anglo-Norman Studies III. 1980. Woodbridge: Boydell Press. p. 186. ISBN 9780851151410. https://books.google.com/books?id=kK2zmZ6FinkC&dq=%22Haroldson+were+two+small+manors%22&pg=PA186 2018年9月9日閲覧。 
  21. ^ Text of the Somerset Domesday: Part 1”. British History Online. Institute of Historical Research, University of London. 2018年9月9日閲覧。
  22. ^ Barlow 1972, p. 92.
  23. ^ Freeman 1871, p. 789.
  24. ^ a b Walker 2010, p. 215.
  25. ^ a b Garmonsway 1975, p. 203.
  26. ^ Golding, Brian (1994). Conquest and Colonisation: The Normans in Britain, 1066–1100. New York: St Martin's Press. p. 39. ISBN 9780333429181. https://books.google.com/books?id=qkpdDwAAQBAJ&dq=%22harold%27s+sons%22&pg=PA39 2018年9月9日閲覧。 
  27. ^ Walker 2010, p. 216–218.
  28. ^ Mason 2004, p. 200.
  29. ^ Walker 2010, p. 218.
  30. ^ Moczarski, Jeremy (2022). A Man of Power and a Lioness of The Cross. Amazon Digital Services LLC KDP ISBN 9798365862883 

参考文献




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