グリゴリー・ミャソエドフとは? わかりやすく解説

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グリゴリー・ミャソエドフ

(グレゴリー・ミャソエドフ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 04:17 UTC 版)

グリゴリー・ミャソエドフ
Григорий Мясоедов
生誕 1834年4月19日
死没 1911年12月31日
影響を受けた
芸術家
カール・ティモレオン・フォン・ネフ、アレクセイ・タラソヴィチ・マルコフ
グリゴリー・ミャソエドフ作「ライ麦畑の小径」

グリゴリー・ミャソエドフ(Григорий Мясоедов; 1834年4月19日1911年12月31日) は、ロシア画家。「移動派」のメンバーで、風俗画や風景画を描いた。

略歴

ロシア帝国トゥーラ近郊で誕生する。オリョールの学校を経て、1853年からサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーでカール・ティモレオン・フォン・ネフ(Carl Timoleon von Neff)やアレクセイ・タラソヴィチ・マルコフのもとで学んだ[1]

1868年にアカデミーから奨学金を支給されて、画家修業のため西欧に向けて旅立った。フランスパリでは大きな感銘を受けて、絵の修業に没頭した。さらにイタリアスペインでも修業に励んだ。1870年にロシアに戻ると、帝国美術アカデミーの会員に選ばれた。やがて移動派の立ち上げに加わり、移動派の規約の起草者となり、運営に貢献した。1871年から開催された移動派の展覧会に作品を出展した。

1880年代の終わりに現ウクライナのポルタヴァに移り、現地で農民の日常生活を描き、劇場の緞帳のデザインや舞台美術の仕事をし、1894年に美術学校も創立した。1902年にアカデミーに抗議して会員を辞した。1911年にポルタヴァで没し、同地に埋葬された。

作品

参考

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