クィントゥス・ウァレリウス・ファルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/30 23:52 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動クィントゥス・ウァレリウス・ファルト Quintus Valerius Falto | |
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官職 |
法務官(紀元前242年) 前法務官(紀元前241年) 執政官(紀元前239年) |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | ウァレリウス氏族 |
出生 | 不明 |
死亡 | 不明 |
クィントゥス・ウァレリウス・ファルト(ラテン語: Quintus Valerius Falto (Q. Valerius Q.f. P.n. Falto))は共和政ローマ中期の政治家、将軍である。第一次ポエニ戦争のローマの勝利を決定付けた、紀元前241年のアエガテス諸島沖の海戦においてローマ艦隊を率いた[1]。
出自
パトリキ(貴族)であるウァレリウス氏族の出身。父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、祖父はプブリウスである。紀元前238年の執政官であるプブリウス・ウァレリウス・ファルトとは兄弟である。
経歴
紀元前242年にプラエトル(法務官)に任命されたが、このときに軍事指揮権であるインペリウムを与えられ、プラエトル・プレグリヌスの最初の例となった。これはその年の執政官の一人であったアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスが宗教的な理由でローマを離れることができなかったための処置であったが、カルタゴとの戦争のためにプラエトルが2人に増員されていたために可能な手段であった。
翌紀元前241年にもプロプラエトルとして軍の指揮を続けた。総司令官であるガイウス・ルタティウス・カトゥルスがドレパナの戦いで負傷したため、ファルトがローマ軍の司令官となって、アエガテス諸島沖の海戦に勝利した。このため、ローマに帰還してからは、カトゥルス同様に凱旋式を実施する権利を求めたが、執政官でなかったこともあって、一旦は拒否された。ケンソルのアウルス・アティリウス・カラティヌス(通常ケンソルは執政官を経験した「長老」が就任する)の調停もファルトに不利なものであったが、ローマ市民はファルトの栄誉を讃える事を望んだため、結局紀元前241年10月6日にファルトの凱旋式が挙行された.[2]。
紀元前239年にはガイウス・マミリウス・トゥッリヌスとともに執政官に選出された。紀元前238年の執政官であるプブリウス・ウァレリウス・ファルトとは兄弟である。
参考資料
- ^
Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ Smith, William (1870). Dictionary of Greek and Roman biography and mythology. 2. Boston, Little. p. 135
関連項目
公職 | ||
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先代: ガイウス・クラウディウス・ケント、 マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス |
ローマの執政官(コンスル) 紀元前239年 同僚 ガイウス・マミリウス・トゥッリヌス |
次代: ティベリウス・センプロニウス・グラックス、 プブリウス・ウァレリウス・ファルト |
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