ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)の意味・解説 

ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/30 07:26 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ガストン・ド・フォワ
Gaston de Foix
ナルボンヌ子爵
ヌムール公
在位 ナルボンヌ子爵:1500年 - 1512年
ヌムール公1507年 - 1512年

出生 (1489-12-10) 1489年12月10日
フォア伯領、マゼール
死去 (1512-04-11) 1512年4月11日(22歳没)
ラヴェンナ
埋葬 ミラノスフォルツェスコ城
家名 フォワ家
父親 ナルボンヌ子爵ジャン・ド・フォワ
母親 マリー・ドルレアン
テンプレートを表示

ガストン・ド・フォワ(Gaston de Foix, 1489年12月10日 - 1512年4月11日)は、16世紀初頭のフランスの将軍でヌムール公。「イタリアの雷」(le foudre d'Italie)と呼ばれた。父はフォワガストン4世ナバラ女王レオノールの息子ナルボンヌ子爵ジャン・ド・フォワで、母はオルレアン公シャルルの娘でフランス王ルイ12世の姉のマリー・ドルレアンである。姉ジェルメーヌアラゴンフェルナンド2世の2番目の王妃となっている。

生涯

国王ルイ12世の甥であり、また王妃アンヌ・ド・ブルターニュの従弟でもあったガストンは、1511年に21歳の若さでフランス軍の総司令官となり、カンブレー同盟戦争(広義のイタリア戦争)で活躍した。勇猛果敢な戦いぶりでフランス軍に数々の戦勝をもたらしたが、1512年4月11日にラヴェンナの戦いで戦死した。フランス軍は戦闘には勝利したものの、総司令官の戦死によって士気が下がり、この勝利を戦略的に有効活用できないまま、結果的に退却を余儀なくされた。

ラヴェンナの戦いにおけるガストン・ド・フォワの死(アリ・シェフェール作、1824年、エルミタージュ美術館
先代:
(ルイ・ダルマニャック)
ヌムール公
1507年 - 1512年
次代:
ジュリアーノ・デ・メディチ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)」の関連用語

ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのガストン・ド・フォワ (ヌムール公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS