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オットー・アッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/02 17:40 UTC 版)

オットー・アッド
名前
ラテン文字 Otto Addo
基本情報
国籍 ガーナ
ドイツ
生年月日 (1975-06-09) 1975年6月9日(49歳)
出身地 ハンブルク
身長 188cm
体重 78kg
選手情報
ポジション OH
利き足 右足
ユース
1981-1991 フメルスビュテラー
1991-1992 ハンブルガー
1992-1993 ブラムフェルダー
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1993-1996 VfL93ハンブルク 80 (4)
1996-1999 ハノーファー 97 (20)
1999-2005 ドルトムントⅡ 5 (0)
1999-2005 ドルトムント 75 (11)
2005-2007 マインツ 19 (0)
2007 ハンブルガーⅡ 10 (0)
2007-2008 ハンブルガー 4 (0)
代表歴
1999-2006 ガーナ 15 (2)
監督歴
2009-2015 ハンブルガー (アシスタント)
2013-2015 ガーナ (ヘッドコーチ)
2016-2017 ノアシェラン (アシスタント)
2017-2019 ボルシア・メンヒェングラートバッハ (アシスタント)
2019-2021 ドルトムント (アシスタント)
2022 ガーナ
2024- ガーナ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

オットー・アッドOtto Addo, 1975年6月9日[1] - )は、西ドイツ(現ドイツ)・ハンブルク出身の元ガーナ代表の元サッカー選手、現在はサッカー指導者。

経歴

クラブ

ガーナ出身の医者の息子[2]として生まれたアッドは、6歳の時にフメルスビュテラーSVドイツ語版の下部組織でキャリアを始め、ハンブルガーSVブラムフェルダーSVドイツ語版の下部組織を渡り歩き、3部(現4部)のVfL93ハンブルクドイツ語版とトップチーム契約を結んだ。1996年に同リーグのハノーファー96へ加入し、後にドイツ代表となるゲーラルド・アサモア, ファビアン・エルンストと共に主力の1人としてプレー。加入1年目は、リーグ最多得点数の100得点と圧倒的な強さでレギオナルリーガ(北部)英語版を制するも、レギオナルリーガ(北東部)英語版王者エネルギー・コットブスとのプレーオフに敗れ涙をのんだが、翌シーズンに2部昇格を果たした。

2部の舞台でも30試合7得点と今までと同様に活躍したことから、1部の強豪ボルシア・ドルトムントに引き抜かれ、1999年9月にアウェーのTSV1860ミュンヘン戦でデビュー。2001-02シーズンは優勝の歓喜を味わう中、アッドは2001年7月15日のDFB ポカール・SCフライブルク戦で十字靭帯断裂し、同月22日に右膝の手術を受けた[3]ことで長期離脱を余儀なくされ、2002年5月8日のUEFAカップ 2001-02決勝デ・カイプフェイエノールト戦(2-3)でエベルトンに代わり61分から途中出場で復帰したが、優勝を逃した。2002年9月7日にカンパラで行われたアフリカネイションズカップ2004予選のウガンダ戦で[4]再び右膝の靭帯を断裂[5]し、2003年9月24日のUEFAカップ 2003-04FKアウストリア・ウィーン戦(2-1)で今後のキャリアを脅かすことになる3度目の靭帯断裂を右膝に負ってしまった[6]。この負傷で2004年度全体を欠場し、2005年1月末のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦(ホーム1-1)に途中出場で復帰した。加入してから主力として54試合11得点、特に2年目はキャリア最多にしてチーム2位となる9得点を挙げていたが、翌シーズンの負傷以降は4シーズンで21試合0得点に終わった。

ドルトムントから契約延長のオファーがあったものの、ユルゲン・クロップ監督に魅力を感じ[7]1.FSVマインツ05に2年+オプション1年で移籍[8]し、クロップ監督も本人も復活を望んでいたが、2シーズンで19試合に終わり、特にインパクトを残すことは出来なかった。しかし、そんな中でガーナ代表としては2006年2月14日に3月1日のメキシコ戦へ向け4年ぶりに招集[9]され、2006 FIFAワールドカップのメンバーに選出された。

2006-07シーズン終了後にマインツが降格し、オプションが行使されず放出されたアッドは、2007年8月9日に地元にして古巣のハンブルガーSVと3年契約を結んだ[10]。元々はリザーブチームのみの起用を想定していたが、フーブ・ステフェンス監督はプレーぶりに感銘を受けトップチームで4度起用し、2008年10月6日のアルミニア・ビーレフェルト戦でラファエル・ファン・デル・ファールトに代わり90分から途中出場したのが、最後の試合となった。

代表

ドイツに生まれたアッドは、1999年2月28日のエリトリア戦(5-0)でガーナ代表としてデビューを果たし[11]、2000年1月27日のアフリカネイションズカップ2000トーゴ戦で初得点を記録した[12]2006 FIFAワールドカップでは、同じくドイツに幼少の頃から過ごしているVfLヴォルフスブルクハンス・サーペイと共に選出され、グループリーグのチェコ戦(2-0)とアメリカ戦(2-1)に出場。このアメリカ戦が代表として最後の試合になった。

指導者

現役引退したアッドは、ハンブルガーSVの下部組織のアシスタントコーチに就任[13]し、2010-11シーズンにヘッドコーチへ昇格[14]。2013年3月27日に監督のライセンスを取得した[15]

2022年2月に解任されたミロヴァン・ライェヴァツの後任としてサッカーガーナ代表の監督代行に就任。同年のW杯カタール大会への出場権を獲得したため2022年末まで契約を延長したが、本大会ではグループステージで1勝2敗のグループH最下位に終わり、大会後に退任した[16]

2024年3月15日、ガーナ代表監督に復任する事が決定した[17]

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 15試合 1得点(1999年-2006年)[18]


ガーナ代表 国際Aマッチ
出場 得点
1999 2 0
2000 6 1
2001 1 0
2002 1 0
2003 0 0
2004 0 0
2005 0 0
2006 5 0
通算 15 1

脚注

外部リンク




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