エミール・ファブリとは? わかりやすく解説

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エミール・ファブリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 00:51 UTC 版)

エミール・ファブリ
Émile Fabry
 ファブリ作「盗人2人と磔にされるキリスト」
誕生日 1865年12月31日
出生地 ベルギーヴェルヴィエ
死没年 1966年2月27日
死没地 ベルギーヴォリュウェ=サン=ピエール
運動・動向 象徴主義
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エミール・ファブリÉmile Fabry1865年12月31日 -1966年2月27日)は、ベルギー象徴主義の美術家。ジャン・デルヴィルらと共にベルギーの象徴主義のグループ「Pour l'art(芸術のために)」などを結成して活動した。

略歴

リエージュ州ヴェルヴィエで生まれた。少年時代にブリュッセルに移り、ブリュッセル王立美術アカデミージャン=フランソワ・ポルテールに学んだ。1892年に象徴主義の画家、ジャン・デルヴィルらと美術家集団「プール・ラール」の創立メンバーとなった。1893年と1894年にはパリの象徴派の展覧会、「薔薇十字サロン」(Salon de la Rose + Croix)にも出展した。 1896年にデルヴィルらが創設した別の美術家集団「Salon d'Art Idéaliste(理想主義芸術展)」の展覧会にも出展した。1890年代の終わりにアール・ヌーボーの建築家、ヴィクトール・オルタやポール・アンカールの建築プロジェクトに参加し、そのスタイルは象徴主義から離れた。1900年にブリュッセル王立美術アカデミーで教え始め、1939年までその仕事を続けた。第一次世界大戦中はロンドンに滞在し、イギリスの「ラファエル前派」の作品を研究した。1920年にはデルヴィルやコンスタン・モンタルドらと「L'art monumental」を結成した。1923年にはアカデミーの壁画及び装飾美術部長に就任し、王立アカデミーの会員に選ばれた。

ヴォリュウェ=サン=ピエールで100歳で没した。

ファブリの絵画





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